東京に行ってました

 

1泊2日で東京に出かけた。今回はストリップショーは観なかった。その代わり、10代の頃にmixiskypeコミュで知り合った東京在住の同い年の女の子と8年越しの対面を果たした。

最大の関心は「で、ヤッたのか?」の一点に絞られることは分かる。期待を裏切って悪いが、服を脱がせたり、首すじに舌を当てたり、合わさった女陰のかたちを下着のうえから指でなぞって確かめることはおろか、身体に指一本触れようとも思わなかった。それは僕が紳士だからではなく、複雑な心理の動きがあったからである。

キレイ事を言えば、長年続いてきた友人関係がおかしくなりそうだと思ったのだ。お互いに非モテを極めた暗黒の学生時代を送り、この童貞処女をいつ捨てられるものかと語り合ったときから、2人ともネットで見つけた異性とあっさり初体験を済ませ、その後も瞬間的な男女交際を重ねて20代後半となった今、「すっかり汚れっちまったなあ」とかつてあった清らかな素肌のいろを懐かしむ旧知の間柄である。ひねくれているようでも、青春時代に抱く浅はかながら真剣な悩み、くだらない葛藤を共有したことで、ほんとうの級友以上に深く代えがたい関係を築いた。ここで一時の興味、衝動にまかせて友人関係を破ることは、男友達とホモセクシャルな行為に耽るようなもので、進めば二度と元の場所に戻って来れない気がする。しかし、一般に成立しないと言われる男女の友情を持ちだして事態を丸く収めようとするのは、この場合、ちょっと甘い。彼女が太っているからである。

「人を容姿で判断するなんて最低だ。ましてや脂肪のつき方しだいで接し方を変えるなど最低の二乗だ」と説教してくださる道徳の先生には悪いが、だれよりも見た目で差別されたくないと望む肥満体の彼女にしてからが、ネットで引っ掛けた相手と初めて会うときに、遠目に見て相手の顔が気に入らなかったらそのまま帰ってしまうと言うのである。それでいうと僕なんか、汗と油でギトギトになった頭髪とよれよれのTシャツで出かける自分がその見た目から警官に怪しいヤツと睨まれ、職務質問されることもやむなしと考えている分、まだ容姿偏重の主義にかたむく資格があるというわけだ。屁理屈をこねずに本題へ進むと、ようは僕が友人関係を壊したくないと思うのは、彼女が太っていて、僕が太っている女性に性的魅力を感じないからではないか、という疑惑が持ち上がっているのである。

ここで「太っている」と言うとき、せいぜい道の真ん中でご近所の悪口を楽しむオバサマたちのような体型、つまり一斗缶を横に2つ並べたような腰まわり、ダチョウの足みたいな二の腕、限りなく円に近似した丸顔ぐらいの太り方を想像するしかないだろうが、彼女はそんな日本人レベルの肥満像に収まりきらないアメリカンサイズの巨体なのだ。体重は目算で100kg超、身長はヒールのない靴で僕(170cm)と並んでほとんど差がない。「わたしもダイエットしなくちゃいけないわ」と語る自称ぽっちゃり女子が、本場アメリカのデブから「それはジョークで言っているのか?」と鼻で笑われるのにたいして、彼女だけは太ったアメリカ人からも正真正銘のブラザーと認めてもらえるだけの肉体的説得力を備えているのである。

目の前で焼き肉を次々とたいらげていく彼女を見ながら、一度は空想のなかで寝室に場所を移す。そこで「俺はこの子に勝てるだろうか。少なくとも対等に渡り合えるだろうか」と軍勢の差をなんとか智略謀略で埋めようとするのだが、自分の首が血しぶきをあげて飛んで行く結末しか想像できない。問題の大きさからして、僕にどうこうできる話ではなかった。敵わないのだ。これを大阪に帰ってから友人の男に話すと「バカだなお前は。なにごとも経験だよ」と笑われたが、そこで弁解のために持ちだされた理屈が例の友情というわけだ。つまり僕は、これ以上ないくらい親しい異性を目の前にしながら、心理的な結合はこれまで通りに求めても、肉体的な接触は一切望まないという、従来の異性にたいする意識のあり方とはまるで反転した心の持ち方をしなければならないために、友情という都合のよい考えを導入したのである。友情だから壊したくないというより、自分には壊せそうにもないから友情を呼び出しているのだ。それが証拠に、もし彼女が痩せていて可愛ければ、自分にとって友情とは一番先に捨てられるべき、踏み越えられるべきものになるではないか。

先から友情友情と繰り返しているが、一見きれいなこのことばの内実がどれほど汚れたものであるか分かったものではない。実は彼女と連れ立って街を歩くとき、僕はえもいわれぬ優越感を覚えた。はた目にはカップルにしか見えない男女の、そのあまりに露骨な好対照――男は薬物使用が疑われるほどゲッソリした痩せ型で、身体のいたるところに骨格のかたちをゴツゴツ浮かせた拒食症患者そっくりの風体、一方女はなにを食べたらそんなデカい尻が出来上がるのかと人体の不思議に思い至らざるを得ない巨大な肉体を誇り、まるでミニチュアセットをねり歩く怪獣のように身体の各部分をゆっくりと連動させながら進む――をみて人々は、痩せた男が太った女を求め、太った女が痩せた男を求めたその嗜好性、痩せた男が太った女を抱き、太った女が痩せた男に抱かれる趣味性の奇態さを一瞬にして感じ取り、好奇なまなざしを向ける。その目線にたまらなくゾクゾクするのである。

人は、仲むつまじい僕らをみて恋人同士だと思うだろうが、実は今日はじめて会ったばかりの初々しい友人であることを知らない。そして人は、日本で流通する一般的な「かわいさ」の条件から大きく外れた肥満体の女性を、つまり「醜い」女をわざわざ選んだこの男に、なにをか非常識な感性があるものと、人間の中身を見る神聖な目がこの人には備わっているかもしれないと勝手に錯覚するのである。この二重の詐術が、すれ違う通行人を次々とあざむいて異性交遊上の道徳的な効果を稼ぎだすことが愉快でたまらないのだ。可憐な女性を連れて「俺はこんなにかわいい女をものにしたぞ」と威張り歩くときとはまた別種の尊敬が周囲から集まる。これは決して恋愛にならない安全な関係だからこそ成立する遊びだ。もし彼女が本当の恋人なら、僕はそこで優越ではなく、たえがたい羞恥を覚えるはずだからである。

彼女の外見は挑戦する。かつての恋人は彼女と並んで歩くことを拒み、ネットで会う約束をした男たちは彼女の姿を見るなり急な用事を思い出して帰ってしまうという。美醜の価値観をたくみに修正しながら目の前の女体で性欲を満たそうとする者もいれば、価値観を矯めずにプライドを守り抜いて拒絶する者もいる。彼女の巨体は無言のまま「わたしを愛せるか?」と強烈に訴えかける。そして僕はこの呼びかけに応じられない。しかし彼女のことは間違いなく好きなのである。ここで自分の不甲斐なさを受け入れる代わりに呼び出されるのが、あの友情というやつだ。男女間で友情が成立するとき、背後ではもっと大きい何かが諦められているのである。

 

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