おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

この悪臭に満ちた世界へ

 

巷で「ダイスキン」と呼ばれているダイソーのノートを買った。モレスキン欲しいけど、3000円は高いなーと思ってネットをウロウロしているとダイソー製のものが案外使えるというレポートを見つけたので、早速買いに行ったのだ。

ぼくのような小心者は、値の張るノートを相手にすると、書きつける内容のほうも高級なものでなければならない気がしてペンが動かない。雑誌なんかで「これが手放せません」と語るモレスキン愛用者はたいてい建築家、なんとかディレクター、会社のお偉いさんであり、みな高給取りなので、ラグジュアリーな品物を前にしても一向ひるまず、高級紙をラクガキ帳にすることに何ら心理的抵抗がないわけである。

紙なら子どものじゆうちょうでも、特売チラシをクリップで留めたおばあちゃんのお手製帳面でもいいはずなのに、格好がつくという理由であえて不経済なことをして、その贅沢を喜ぶ。これはファッションである。上流階級のセレブ生活にあこがれる成功者ワナビーたちが、ブランドロゴを体じゅうにペタペタ貼りつけて歩くように、豪華なノートに手を出して「やっぱり高いものは書き味がちがう。買ってよかった」と顔を引きつらせて勝者の感想を漏らすのだ。うかつに金持ちのまねごとも出来ない貧乏人、けんちぼ、無頼のやからは安価な模造品で身の回りを固めるほかなく、このニセモノまみれの景色を埋める1ピクセルがダイスキンの黒というわけだ。

そしてこのノートが臭いのである。「文字が透ける」「表紙のつくりが粗い」など、もろもろの欠点については事前のレビューを読んで覚悟していたが、まさか紙面が臭いとは思いもしない。「夫が借金をつくって逃げてしまってね。しかたなく12歳の娘を売春宿に売り払ったよ。そのお金もこのあいだ強盗にとられてしまってね。今じゃここで朝から晩まで15時間働き通しさ」と語る、鼻の穴まで煤煙で真っ黒になったおばさんと、そんなおばさんたちを一箇所にすし詰めにした製造工場のイメージが一瞬にして目の前にひろがる、そんなにおいである。

むかし近所の公民館の一室を借りて開かれるワンマン英語塾に通っていたとき、女子大英文科あがりの神経質なマダム塾長が、何度やっても基礎問題がとけないちょっと頭の弱いM子が提出した宿題を採点しながら「M子さん! あなたの問題集は臭いです。頭がクラクラします。先生は今までこんなにおいは嗅いだことありません。一体どんな家に住んでるんですか!」と理不尽なキレ方で迫り、その場で号泣したM子がブッボと鼻水を吹き出したことがある。一部始終を最前列で見ていたぼくは「とんでもねえキチガイババアのところに来ちまった」と入塾してすぐ退塾を決めたが、今では塾長の怒りもよくわかるのである。目の前にひろげたノートが臭いというのは、ひどく腹の立つことなのだ。これが納豆や鮒寿司なら臭くてもイラつかないが、もともと臭くないはずの、少なくともこれまでの経験上一度も臭くなかったはずのノートが、ある日突然臭いとき、腹の底から怒りがこみ上げてくるのである。

ノート、問題集に限らず、ときどき本も臭い。たまにブックオフで中身を確認しようと文庫本をパラパラめくると、太った男のテカった額の油をぬぐったティッシュのようなにおいが、ふわっと鼻先をなでることがある。これはたいてい空調機が吐き出した空気か、自分の体臭口臭の取り違えが原因である。それは頭では判っていても、手にした本の小口やあたまのにおいを繰り返し確認せずにいられない。本のにおいを嗅ぐ動作が書店ではひどく見苦しいものだと知りながら、ついやってしまう。ぼくがもし同じように本を嗅ぐ友人のすがたを書店を見かけたら、声をかけないで後日その友人宅にどこか見晴らしのいい療養所のパンフレットを送るだろう。

そこまで本のにおいを気にするのは、一度Amazonマケプレで買った中古本(忘れもしない! 宮崎哲弥の『新書365冊』だ!)が悪臭を放っていたからである。タバコ臭と、近くで散々焚いたらしいお香のにおいが混じり合って、ページを繰るたびに、鼻の粘膜がひりひりしみるのだ。出品者さんは、本から異臭がする際にはちゃんと「洗わない犬のにおいがします」とか「足の親指の爪に溜まった垢のかたまりのような発酵臭あり」とか「下校途中の女子高生から買った靴下の香りです」とか「犯罪のにおいがします」とか、商品の備考欄に必要な情報を明記しておいてほしい。

電子書籍の最大の不都合は、安価な中古本が手に入らないことだが、それは同時にポテトチップスの油染みのついたヤニ臭い本を掴まずに済むということでもある。このブログも、肉体的精神的に不健康な男が、カビの浮いたカップラーメンの空容器と、モスグリーン色のごはん粒が貼りついたコンビニ弁当のフタにかこまれて、深夜シコシコと書き上げているのだから、もし紙のまま配布すれば、紙上に繁殖したありとあらゆる雑菌のせいで、本文を一行と読めないほど凄まじい悪臭を放っているに違いない。それを皆さんに、まったくの無味無臭、消毒済み抗菌パックで安心して読んでいただけるのは、ひとえに文明の利器すなわち消臭力のおかげである。複製技術時代の芸術作品には、昔のアートがまとっていたアウラがない、つまり「いま、ここにたったひとつだけあること」の価値が認められなくなったと言うが、もしそのアウラをつまんで鼻先に近づけたら、絶対に良いにおいはしないはずだ。

ぼくらの消費活動はすべてオリジナルなき大量生産の規格品によって営まれており、どこを見渡しても特有のにおいを発するものがない。これは一見好ましいが、実はなにもにおわないことのほうが辛いのではないか。満ちたているはずの生活がどこか虚しいのは、ぼくらを取りまくモノの、いつでもどこでもだれのものでもありえるという偏在性と、お手軽なコピー&ペーストの再現性が放つ、無臭のにおいが鼻につくせいではないか。一人暮らしの若者向けインテリア雑誌のなかに、ネットで見つけてきた西洋絵画を小さくプリントアウトして写真立てに収め、本棚のうえに点々と飾っている男子学生がいた。彼は「こうするとオシャレじゃないですか? ほとんどお金も手間もかからないので、気に入った絵があればどんどん入れ替えています」と語る。その部屋はたしかにキレイだが、いやキレイであるからこそ、においなき悪臭に満ち満ちている。彼の部屋づくりは特殊な例ではない。現代を生きるぼくらの生活そのものである。

自己臭恐怖症の現代人に足りないものは、もちろん臭さである。ある報道番組で、丸2年ずっと風呂に入らず、シャワーも浴びていない精神病の中年男性がとりあげられていた。彼の部屋に集まった人々――同居する両親、遠方から駆けつけた兄弟姉妹、相談を受けたソーシャルワーカー、撮影するテレビクルーのなかで、唯一オリジナリティ溢れるアウラを発散しているのは、今まさにこれから病院に送られようとするその男だけであった。「アンタ、2年も風呂に入らないなんて異常だよ! 病気だよ!」と説得される彼だけがその場で正常に臭い人間であり、それ以外の人たちはみな病的なほどにおいがしないのであった。ぼくも彼のような臭い男でありたい。そう思いながら、今夜も入念にわきの下をボディソープで洗うのである。

 

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