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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

記事に対する返信と目指すべき松岡修造について

この記事で言及してもらったので、お返事を書きます。

コメント欄にお礼を書くだけというのも寂しいし、とってつけた社交辞令以上のことを言いたいし(自分のブログ更新もできるし)、自分への賞賛コメントだけを徹底的にリツイートする二流芸能人のように、ヤラセの自己演出で世評をねじ曲げて、つかのま甘い夢に酔っていたいし、なにより嬉しかったので、ここに書きますね。 

嬉しいのは、山崎さんが自身のブログ『点の記録』を始めるきっかけとなった理由のひとつに、ぼくのブログを挙げてくれたことです。薬物犯罪を助長したり、わいせつ事件の引き金になることはあっても、ひとに健康で文化的な影響を与えるブログではないと思っていたので、すごく驚きました。自分のことばに人を動かす力があると実感するときほど、ブログをやっていて良かった思う瞬間はありません。落ち着いたものの言い方ですが、内心はクリスマスツリーのしたでプレゼントの包装紙を破り捨てる子どもと同じくらい狂喜しています。ぼくの家にはツリーもプレゼントもありませんでしたが…。  

さて、ここからは山崎さんが記事で挙げた「ブログあるある」をうけて、ぼくもブログ執筆中にぶち当たる壁への自分なりの対処法を書きます。これは正攻法ではないし、人のやり方が他人にとって有効であることは少ないので、ジャングルの奥地に住むある部族の奇習のひとつだと思ってください。 

まずは文末の「だである/ですます」問題です。ぼくもいつも迷いますが、「じゃあ、これから書くことが『だである』調だったら、もっと内容が良くなるんだな?」と粋な質問をしてみると、たいてい答えに詰まるので、「もうどっちでもいいです」とやけくそ気分で、その場の雰囲気に任せることにしています。松岡修造は、自身の主宰するジュニア選手のトレーニング合宿で、「どっちでもいい」と言ってはいけない、と張り紙をするそうです。それは「どっちでもいい」が自分の頭で考えることから逃げることにつながるからだ、と言うのですが、なかには自分で考えないほうがいい問題もあるということを、このファブリーズ・メンは知らないようです。 

つぎに文章の構成です。僕も山崎さんと同じように何も考えないでダーッと書いていきます。事前にあれこれ書きたい項目をリストアップすることもありません。だから後半になると、いつもひどい目に遭います。起承転結でいえば、起承の段階ではまだ川の中州にキャンプセットをひろげてワイワイ楽しんでいるのですが、転で水かさがどんどん増してくると中洲にとり残されてしまい、結ではもう腰の高さまで水が押し寄せ、流されないよう必死にBBQグリルにつかまりながら「助けてくれ」と泣き叫ぶことになります。このピンチを自力で切り抜けられるかどうかはその日の体調次第です。しかしいつまでも運任せでは頼りないので、さしあたり次の助言を参考にします。中島らもがエッセイの構成について述べたことばです。

「(世の中の)エッセイがおもしろくないと思ったのは、内容が貧相なのに、なんとかデコレーションでマスを埋めようとしているからだね。おれの場合は一番最初におもしろいことを頭に持ってきて、あとはだらだらと書いて、最後トンボ返りみたいなことをして終わるって形で、ずっとやってきた。コピーライターで培われてきたものもあったろうけど、広告の場合は自己表現からかけ離れたものでしょ。エッセイは自己表現をしないとおもしろくないから、全然ノウハウは違う。」『異人伝』

ひとの興味を掻きたてることがらを頭に置いて、最後はヘンなオチをつけて終わる、というのはエッセイ全体もそうだし、パラグラフ単位で、もっと言うと文章単位でも通用する「おもしろ」の作り方だと思います。ぼくも毎回トンボ返りを目指して羽ばたきますが、フラフラと草むらに胴体着陸して終わりです。見上げると、中島らもは遥か上空を飛んでおり、酒とドラッグの二大薬物のドーピングで、雲のあいだにできた時空の裂け目から五次元世界へと消えていきます。

ぼくは前後の論理的なズレではなく、左右の要素的なブレを気にします。「1記事1テーマにする」というブログ運営テクニックがありますが、まじめな人は『A』というテーマを設定すると、「Aである。だからやっぱりAだと思うし、つまりAなのである」と同じ主張をことばを変えて繰り返すだけでまったく前進しません。最初から完成したプラモデルを買ってきて、色んな方向から眺める末端消費者の道楽です。

「新しい意味を伝えることが、命題の本質である」(ウィトゲンシュタイン)と言う通り、おもしろくて価値のある文章は、新しい意味を伝えてくれます。ぼくは丹念にロジックを積み重ねて新しい意味を導き出すことができないので、わざと脱線してヘンな要素を詰め込んで事故が起きてくれるのを待ちます。結局それを自分の手でまとめて処理しなくてはならないのですが、その過程で自分でも予想外の着地点が見つかることがあります。予想がつかないとは、少なくとも自分にとって未知のなにかが出現した証拠です。これが新しい意味であり、新しい価値です。

一見すると「無理して書いているように思えない」かもしれませんが、無理しないと書けません。落語の世界では噺家に備わった天性のおかしさ、おもしろさを「フラ」と言うそうですが、そんなものがある人は別にして、フラなし人間は無理しないとおもしろくなりません。そこで大事なのは無理のしかたです。どんなに自然体にみえる言葉でも、ぼくたちは呼吸するように文章を書いているわけではないので、不自然はつきものです。それでも自然にみえるものは、丸谷才一の文章奥義「ちょっと気取って書け」のうち「気取らないことを気取る」にあたる無理のしかたの一つだと思います。これは合コンで天然キャラを演じる女が、じつはメンバーのなかで一番計算高い人間であることと同じです。脱力するためにはやはり力を込めなければなりません。

最後に、山崎さんのブログをはじめて読んだときの感想を書きます。どんな記事かは忘れましたが、とにかく「えっ、俺より年下なのに、なんでこんな文章うまいんだよ…」と正直あせったことを覚えています。二人とも筒井康隆とその周辺作家が好きという趣味の一致から、どこに表現のおもしろさを感じるかという文章のツボがかなり似たところにあるようです。だからぼくも当然山崎さんの書く文章が好きですし(知っているブロガーさんのなかで最高に)、読んでいてワクワクします。「自分のことばで書けてないかも」と気にされていますが、山崎さんはすでに自分のことばを持っていて、自分の考えを自分なりに表現できる頭のいい人です。それはほかの人には産み出せない価値を創造しているということです。自信を持ってください。

「理性は情熱の奴隷である」と言う通り、文章なんて所詮は気持ちを後追いするだけのうすのろのでくのぼうに過ぎません。松岡修造が尊敬に値するのは、理性が追いつくよりも先にネット際まで走りこんで情熱的にラケットを振りまわすところです。

「僕は『熱血』と称されることが多いのですが、自分のことを決して熱いと思ったことはありません。どちらかというと冷静にものごとを考え、地道に進んでいくタイプだと思っています。」松岡修造『本気になればすべてが変わる』

どうですか、この理性の周回遅れっぷりは。しかし残念ですが、文章の書き方でクヨクヨ悩むぼくたちは、ことばの主人たる資格を欠いています。松岡修造がその情熱でことばを奴隷のようにこき使う力、すなわち彼の文章力には遠く及ばないのです。ベンチでうなだれる敗北者のぼくらに向かって修造はなんと言うでしょうか。きっと「がんばれ!がんばれば必ずできる!」と応援してくれると思います。だからお互い頑張って天然女子の演技テクを磨き、理想のイケメン男子をゲットしましょう。

それでゎ。。。

 

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