おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

キンドル・アンリミテッド・サーガ

このブログで時事ネタをとりあげないのは、流行しているものなら何でもすぐに乗っかって浮かれ騒ぐお調子者が、その浅薄さゆえにかえって浅はかな女子達からチヤホヤされるという、この世の不条理を体現したようなワンシーンを学園生活のなかで何度も目にしてきたために「おれは奴らと違うんだ」と妙な選民意識に火がついて、自分だけは流行りごとと決別して暮らしていくぞと10代の頃に決めたからだし、そうしてしばらく流行の電波の届かないところで逃亡生活を送るうちに、時事ネタの扱い方をまじで忘れてしまったからである。

とはいえ「わが人生、他と比較して自分をきめるなどというような卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、わき目もふらず突き進むだけだ」と言うアート界の人間核弾頭こと岡本太郎のように、たった一人で社会を相手に闘うこともできないで、いかにも日本人らしく「皆がそうするのだから」と見えない同調圧力に自らすすんで付き従うことで日々の生活に安心を見いだすようなタイプなので、誰かがポケモンGOだと騒ぎだしたら自分もインストールするし、Amazonの読み放題サービスが始まったと聞けば、急いでお試しキャンペーンに登録するのである。

しかし例のモテざる者のルサンチマンのせいで「ズバット連続8体ゲット。もういらねーよ!」とか「タマゴを割るために河川敷をチャリで10km走りました」とか、いくら本当のことであれ、うっかり話すと、自分が忌み嫌っているはずのあちら側の人間になってしまうため、軽々しく口にできないのである。一方で周りの人たちと同じでありたいと思う気持ちもあり、心理と行動がバリバリと引き裂かれる。

ホモセクシャルは神への冒涜だ!」とゲイを激しく攻撃していたキリスト教保守派の聖職者が夜な夜な自室にセクシーな男娼を連れ込んでいたなんて話は米国では珍しくない。看板として掲げる体裁のいい目標、聞こえのいい理念、しびれるような人生観とはまったく矛盾した行動をとってしまうところに人間の愛すべき愚かさがある。立川談志は、人間の業の肯定が落語の本質だと語ったが、それだけ僕たちの生活は、おかしさとでたらめさに満ちているということである。

僕はこういう長い前置きをして、大量の言い訳を用意しておかないと、なにごとも安心して語ることができない。なにかを伝えよう、表現しようとする人間にとって、自分のやっていることに自信が持てないというのは致命的な欠陥である。これは卑下慢ではなく、「わたしってブスだから」と語る女が暗に待つ「そんなことないよ」という優しい否定のことば欲しさから言うのでもない。なにも確信をもってコレだと断言できない臆病さ、軟弱さ、肝っ玉の小ささを日々実感するからこそ言うのである。

とくに優柔不断の度合いは、年間150万円を婚活に投じても相手を選びきれないアラフォーOLと同じで、病的な領域にまで達している。コンビニでジュースを買うときは、ケース前で5分悩まないと選べないし、歩いていて靴ひもがほどけたときは、ちょうちょ結びの左右の輪っかの大きさを決めるのに15分しゃがんだまま微調整を繰り返さねばならぬので、そのまま車に轢かれたことが3度あり、その3度とも生死の境い目でどちら行くか5日間迷ったくらいである。

ウディ・アレンは、自身の自伝的映画『アニー・ホール』の開始早々、人生とは「孤独と悲惨と苦痛と不幸に満ちていて、おまけにあまりにも早く終わってしまう」とカメラ目線で嘆いた。この人生観は、連日朝までクラブで踊り明かすパーリーピーポーとはまるで反対のじめじめした陰湿ネクラ人間の発想であり、僕みたいな憂うつ気質のインドア派には大いに共感できるし、ウディ・アレン自体も女の子みたいに小柄で身長が低く、髪の毛はスカスカに禿げ上がって、外人のくせにちっともイケメンじゃないところをみると、ますます勝手にシンパシーを感じるのだが、どうしても1つだけ理解できないことがある。

それは彼がNY在住の女子から抱かれたい男NO.1に選ばれたことでもなければ、美しい女性とばかり4回結婚(3回離婚)していることでもない。人生が不幸に満ちていると考えるような極度のマイナス思考の男が、なぜ70歳を超えた今でも、毎年のように映画を撮り続け、脚本を書き続けられるのか。失敗すれば、他人から「つまらない」とか「おもしろくない」と文句を言われ批難され、人生がもっとみじめで、苦しみに満ちたものになるのに、どうして積極的に創作活動に打ち込めるのか。

その秘密は、ウディ・アレンがまだ駆け出しのコメディ・ライター時代に出会ったひとりの先輩ライターの教えにある。

「僕はコメディの書き方に関するすべてをダニー・サイモンから学んだといってもいい。……あの頃、ダニーからしっかり教え込まれたことのひとつは、自分に絶対的な自信を持つということだね。自分の感性に絶対の自信を持つんだよ。そのことを僕は今でも忘れていない。ダニーは他の人間が何といおうとも、絶対に自分の感性を信じていたからね。」(井上一馬『ウディ・アレンのすべて』)

ざんざん引っ張っておいて、最後はあまたの名言集、モテ本、自己啓発書と同じ「自分に自信を持て」のアドバイスに終わるとは、秘伝の錬金術を期待していた身としてはガッカリするところだが、大事なのはマイナス思考、根暗オタク、チビハゲブサイクの各属性と、自分の感性に絶対的な自信を持つこととは、何の問題もなく両立するということである。

水道橋博士はあるテレビ番組で「ショービジネスは、カッコ悪さがカッコ良さに反転する世界だ」と語った。バラエティ番組で芸人がじぶんの容姿をネタにして、あるいは貧乏話や苦労話、失敗談をおもしろおかしく披露して、本人にとっては笑えないことでも大きな笑いに変えてしまう場面をよく見る。1人の社会人としてみれば生活や人格に破綻をきたしているような人でも、笑いに魂を捧げて、自分を投げ打っているところが芸人としては最高にカッコ良いわけだ。これはテレビ、映画、演劇に限った話ではなく、表現に関するところすべてにはたらく法則だと思う。カッコ良さの反転マジックは、世間にたいして胸を張って言えないようなこと、出自なり経歴なり容姿なり学歴なり思考なりおいなりさんなり、もろもろのカッコ悪いところを、変なプライドでラッピングせずに、そのままぶざまに人前にさらけ出せるかどうかに懸かっている。僕にその覚悟がないのは、自信はあっても、それはなにか外部の基準に照らしあわせた評価(たとえばテストの点数、他人の評判、同世代の平均年収)を必要とする弱々しい相対的な自信であって、もっと無条件に成立するような絶対的な自信、盲信的といってもよい強い自信を持たないせいである。嬉しいことに、そして辛いことに、この根拠なき自信を持つ方法は、持つか持たないかで、持つほうを選ぶだけということだ。

ここに映画『ロッキー』の名解説が重なる。つまり「それは、人生するかしないかというその分かれ道で、するというほうを選んだ勇気ある人々の物語」(荻昌弘)であり、スタローンがあのダミ声で言うには、するを選ばないとテメエの物語も始まんねーよってことだ。ウディ・アレンが最初期の監督作『バナナ』で当時まったく売れない俳優だったスタローンをチンピラ役の1人として起用したのは、オーディションで「きみはぜんぜん不良に見えない」と不合格を言い渡しても、スタローンが「もう一度チャンスをくれ」と引き下がり、後日ヘアスタイルやファッションを役にぴったり当てはまるように完璧に仕上げてきた、その熱意を買ってのことだった。スタローンはロッキーになる以前から、するしないのうち、するを選ぶ人間だったわけだ。

これにならって僕はKindle Unlimitedでも、アダルトコンテンツの表示を「しない」ではなく「する」設定のほうを選んだ。その結果、今までランキングにはなかったはずのブロンド美女のエロ写真集がトップテンを独占するようにドッと姿を現したではないか。そう、これがするを選んだ人間だけが見るこの世界の美しさなのである。

 

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