おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

材料を見つけることも才能のうち

さいきん読み進めている『日本近代随筆選』(岩波文庫)のなかに、井伏鱒二が文体を語る一篇があって、これがグッとくる。

「自分の希望するのは、文体の浄化というよりも、書きたい材料に巡りあわすことである。……ゴーゴリセルバンテスなどの書いたような材料を空想で見つけたら、文体のことなど気にしないで執筆に熱中できるかもしれぬと思っている。材料を見つけることも才能のうちに入れられる。」『「が」「そして」「しかし」』

この「材料を見つけることも才能のうち」ということばは、ネタ切れぎみの泡沫ブロガーの耳にはいがぐりをねじ込まれるより痛い。少なくとも材料の発見に関して(そしておそらくその表現に関しても)、君は無能だと聞かされるようなものだからだ。

井伏先生に言わせれば、「私は小説という芸術の話をしているのであって、未来のエレクトロニクスが未成熟、無教養、非洗練の大衆に可能ならしめた、ブログという屁みたいな文章の散布機構の話をしているのではない。小説の素となる材料と、日常の身辺雑記に必要な材料とは、おのずから選を異にしている。実際、斎藤茂吉は息子(北杜夫)に『屁のようなものを書いたらこんなにくれたよ』と随筆の稿料について話したそうだ。屁の素とは食べ物だ。したがって材料切れに苦しむきみたちはまず食べ物を摂ったらどうかね」ということになるだろう。

しかし先生、そりゃ先生方にしてみれば、詩や小説よりいくぶん等級の劣る雑文を書き飛ばすなんざ、夕刻リビングで缶ビール片手に野球中継を見ながらプフィッと屁をひりだすようなものかもしれないけど、紙とペンの扱いを知らないエテ公同然の私たちには、ドロドロした沼地にかなづちと釘だけで18階建てのビルを打ち立てるより難しいのであります。

実際に私はその才能の差をみたことがある。開高健が2年書き続けた随筆連載の最終回でこんなことを言った。

「というわけで、こういう短文を私は書き続けてきたが、これ以上書き続けると、私の元金に食い込むことになる。つまり小説を書くための材料、イメージ、エピソード、そういう私の朦朧とした頭の中にしまい込まれているものに、手をつけて書かなければならなくなる。この二年間に書いてきたものは、創作メモの欄外余白にあるものだった。それは私の小説のために使うイメージを元金とすれば、それから分泌された利息みたいなものである。その利息がここで尽きた。」『開口閉口』

これが格好良いのは、今まで書かれてきたエッセイが、余白にちょこちょこ書きつけた小ネタを膨らませてつくったとはとても思えないほど完成度が高いことである。まるで短編小説を読むような、とは随筆を褒めるときの常套句だが、そんな文句で収まりきらない魅力がある。深いくせに浅く、重いくせに軽い。悲しいくせに笑っているし、嬉しいくせに泣いている。「オッサンにならないと聞こえない音というのもおびただしくあるのだよ。ボクチャン。」の一行に代表されるように、オッサンの加齢臭、もといオトナの色気にあふれている。それが余白における、まさに余裕の戦いだったと知らされるとき、バトル漫画でありがちな「実はまだ敵が本気を出していなかった」型の展開同様、相手が利き腕とは逆の腕を使っていたと知るときの主人公とまったく同じ絶望感を味わう。こんな奴に勝てるわけがない。

小説家の随筆に妙にうきうきした躍動感があるのは、使用する素材が余りものだから丁重に扱わなくていいし、物語の形式的な制約を受けずに済むし、そのくせ金にはなるといったもろもろの都合を反映した結果なのだ。たいして私たちはこれとまったく逆に、くだらない題材を大金でも運ぶように慎重に扱い、ふだん使わない書きことばの表現、文法のルールに縛られて不自由を感じ、おまけに苦労して書いたものが一銭の売上にもならないといったもろもろの条件を反映した結果、屁にもならないただの空気をもわもわと尻の穴から吐き出すことになる。逆説的ではあるが、雑文をうまく書くなら、小説とか詩とか、もっとパリッとした創作に首を突っ込んでいるほうが良いということだ。これは近所のバイク屋のオヤジが「おれはほんとうは車が一番好きだ。でも仕事にはバイクを選んだ。それはバイクが2番目に好きだからだ」と言うのと通ずるものがありますね。

 

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