おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

飲む、打つ、書く

お題「マイブーム」

いま手書きにハマっている。

紙に書いたものをパソコンで清書する二度手間をかけてまでアナログな手法にこだわる理由は、時代の最先端を走る人びとが自然回帰を遂げる、あのロハス志向のブルジョア趣味にほだされてというのではなく、作家志望の若者が、あこがれの文学者の情熱を一向理解せずに、その執筆手法だけをまねして同じ才能に近づこうとする虚ろな形式主義にとらわれてというのでもない。

あこがれの筒井康隆井上ひさし、その他歴代の物書きたちが万年筆を愛好していると聞けば、数万円もする高級品にはさすがに手が出ないので、子ども用の安価なコケオドシ的万年筆を買って使ってみたり、中島らもが鉛筆を愛用していると聞けば、今度は鉛筆をダースで買い込み、「やっぱり木のぬくもりだ」と訳のわからないことを言っていた時期がある。そうして筆記用具をとっかえひっかえしているうちに「なんだ、ちっとも上手くならねえじゃねえか」と思って、自分の不出来、不手際、不成功を道具のせいにするのをやめたのだ。

先人はこれを「能書筆を選ばず」で戒めたが、反対に「一流は道具にこだわる」と主張する一派もある。野球選手がバットに、料理人が包丁に、AV男優がペニスにこだわるのはむしろ当然で、自分の商売道具に無頓着な人間はプロ失格とも言える。いずれにせよ道具の選り好みは上級者のやることであって、「あの人と同じものを持てば自分もスターになれる」と考えるのは、貧弱者がオットセイの睾丸を飲んで絶倫になろうとする類感呪術の発想であり、話の出発地点に始発駅と終着駅くらいの差があるのである。日本人なら誰しも一度は東大に保管されている夏目漱石の脳みそを持ち出して焼いて食べたいと思うが、そんなことをしても「だから清の墓は小日向の養源寺にある」の一行は書けない。

手書きを始めた理由は、文具店から出てきた小学3年生と同じだ。新しい筆記用具を使いたくてたまらない。三菱鉛筆ジェットストリームを愛用してきたが、たまたまスーパーで試し書きしたPilotのフリクションボールに衝撃を受けて、その場で替芯まで買ってしまった。驚いたのは書いた字を消せるところではなく、その書き味である。ジェットストリームもボールペン界では屈指のなめらかさを誇るけれども、所詮は油性インクだ。水性のフリクションボールには、ペン先からインクがぼたぼた滴り落ちてくる感覚があって、これが子ども用の万年筆より高級な書き味がしたのだ。

機械のわずかな摩擦がGNPの数%を左右する(『摩擦の世界』岩波新書)と聞いたとき、そんなのウソだと思ったが、自分にしてボールペンの書き味ひとつで、なにかを書く意欲と実際の文字量に差がでるのだから、これが国の規模となるとその作用もバカにできないと思った。港湾一帯を占める重化学工業から、寝室における男女一組の交合にいたるまで、摩擦とその潤滑は生産の鍵を握っているわけである。

フロイトは「一本の管から紙上に液体を流出させる『書く』という行為は、性交の象徴的意味をもつ。禁じられた性行為にふけるようなものだから、慎まなくてはなるまい」と語った。キーボード時代の現在なら「一つのキーから回路に電気信号を流動させる『打つ』という行為は、性交を象徴する」と都合よく言い換えられるが、この性交はUSB電源で動く人工膣に射精された精子の遺伝子コードを瞬時に分析し、遠方で同じようにはたらく人工陰茎の先からコピーした合成精子をピッピと放出するようなものである。これでヤッたと胸を張れるのは22世紀になってからだ。

ゲイバーで酔いつぶれた乙武洋匡は、小便するときに自分のいちもつをおネエさん方につまんでもらって弾道を調整したというが、僕は自分のペンは自分で握りたいと思うほうだ。訂正すると、手書きを始めた理由は、風俗店に入る中年男性とまったく同じで、病気をしても禁じられた行為に生で耽りたいという一種の変態性欲に端を発しているのである。

 

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