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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

書くことない病

 

書くことがないのに更新だけはしたい例の病気である。本職として飯を食うために、あるいは嫁さんに家計を握られているせいで月々わずかしかもらえぬ小遣いのせめてもの足しに、それか「娘を返して欲しければ、こちらが指定したブログに月30本以上の記事を書け」と脅されるような喫緊の事情がない限り、こんなもの律儀に更新してられるかというやたけた、やけくそ、やけっぱちである。

16世紀のフランスで「ネタがないなら、ネタがないことをネタにすればいいじゃない」と語った女は、公然と自家受精を礼賛し、国中の青少年を自涜の虜にしたかどでギロチン台に送られた。かつて日本でもマスターベーションはするだけバカになるという風紀があったが、今では保健体育の教科書で、国家直々にその行為に宿る精神のさわやかさ、すこやかさを宣伝するに至っている。

「実は、何を書くのか判然しないまゝに書き始めてゐるのである」と語りながら、その批評文で「神」の称号を得たのが小林秀雄である。そんなことを言い出すと、神に遠く及ばぬどころか、高床式の便所のしたで喜んで人糞をほおばるブタのような我われこそ、毎回なにを書くのかハッキリしないまま書き始めているわけであり、そんな心構えで世間の評が集まるのなら、苦労しないのである。「テレビというのは、素人が芸をするか、有名人が私生活をみせるか。この2つに1つだ」と上岡龍太郎は語った。別段このことばが鋭いとは思わない。そもそもテレビとは、有名人を製造する機械だからである。そこに投入される原材料はまだ有名人ではない人間つまり素人に限られる。技芸はその触媒にすぎない。

上岡龍太郎の発言から30年経った今でもテレビをとりまく状況はまるで変わらないところを見ると、いつの時代も人の見たいものは同じだとわかる。セレブに生まれなかった不幸な身分で、しかも人から注目されたいと願う天性の目立ちたがり屋という不幸が重なれば、裸になって叫ぶか、攻撃的なことを言って炎上するか、とにかく何であれ一芸を磨くしかない。

辛酸なめ子『自立日記』、大槻ケンヂオーケンののほほん日記』を読むと、日常のなにげない一面を描きながらなお面白い、サブカル風センス満載の日記をまねして自分も書いてみたくなる。ところが僕は、なめ子氏のようにミッション系の私立女学校を出たお嬢様でもなく、オーケンのように破壊的ロックバンドのボーカルをやっているわけでもないので、日記を書くとなると一般人の一般的な生活を一般的に記述していくほかない。どちらとも「有名人の私生活」を売り物にした書物なわけで、いまから同じ土俵で戦うには、髪を伸ばして女子校に入学し、そこでロックバンドを組んで顔を白く塗ったあげく、CDデビューを果たしてさらに売れなければならない。芸能人の日常は一般人の非日常なのだから、素人の僕は日常生活から遊離した空想妄想、虚実皮膜の世界でふざけたことを語る芸を磨こうと思いました。

 

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