ハブ本

 

クモの巣のようにほかの本へ線を伸ばす本、おもしろい本へとつながる本を「ハブ本」と呼びたい。が、検索するとすでにあやしい書評ブロガーやビジネス本ライターによって使われていたのでもうやめたい。耳触りの新鮮なことばを作って、なにか新しいことを言ったと思わせるのは、創造性のない人間の常套手段である。ハブ本を語るなら、日本でもっとも一般的なハブである「ホンハブ」について話すほうがまだ良い。なんたってこれは1匹捕まえるごとに報奨金4000円が出る。しかし命を賭けた狩りの報酬が4000円とはちょっと安過ぎやしないか。似た生き物でもツチノコを生け捕りにすれば2000万円が貰えるというのに。

ほんとうのハブ本は、われわれが気付かぬうちに生活のなかに浸透している。2005年の『決断力』を皮切りに『適応力』『直感力』『捨てる力』『考える力』と息つく暇もなく本を出す棋士羽生善治は、今やそのありあまるパワーで、現代ビジネスマンのヒューマンパワースポットと化している。

偉業を達成した人間のことばはありがたい。書店の棚にイチロー語録、稲盛和夫の言行録が日々かさを増していく様子をみればよく分かることだ。幼少期から木製の駒や長い棒しか触ってこなかった人間がビジネスを語り、長年サラリーマンとして仕事しかやってこなかった人間が人生を語る。なんでもその道を極めれば、ほかのところでも通ずる身のこなし方があるという話だろうが、われわれにとって「ヒト」という共通約数がつまらないように、あらゆるところに当てはまる法則というのは、それだけ利用価値もないのである。どうせなら、もっとありがたくないことばを参考にしたほうが良い。たとえば、

 どこで寝る 世間の人は 悩まない

 仕事した 給料貰った ああ夢か

 指さされ あんな大人に なるなよと

 『路上のうた ホームレス川柳』ビッグイシュー日本編集部

豪邸に住みたいか。家があるだけマシと思うか。

UFO研究家の矢追純一は、日本テレビの社員だった60年代当時、UFO特番をたくさん組んだ。その理由は、暗い顔してうつむいて歩く日本人たちに空を見上げて欲しかったからだというウソみたいな美談がある。しかし、空ばかり見上げて歩くと、ほんとうにUFOにアブダクションされて脳みそにマイクロチップを埋め込まれるか、道の真ん中に落ちている動物の敷物のようにぺしゃんこにされるのがオチだ。下を向いて歩けば、干からびたみみずの死骸にわんさか蟻が群がるところをみて、こんなものでも役に立つのだと思い知る。僕も死ねば、火葬場につとめる契約社員の給料になり、その子どもが夕食どき口に運ぶシャケの一片にもなれる。

森鴎外北原白秋太宰治柳田国男斎藤茂吉正岡子規永井荷風井伏鱒二夏目漱石川端康成小林秀雄寺田寅彦……この顔にピンと来たら110番ではないが、この名前の一団に脳のマイクロチップがビリビリ反応する人は、岩波文庫から出た『日本近代随筆選』をすすめたい。ハブ本ということばは、この本を紹介したいがために用意したのだ。

おいしい時代を生きた文人40名のエッセイを一気読みできる本などめったにあるものではない。その意味ではツチノコ本と言ったほうが正しい。日本文学史に名を残す40人を講演会に招き、1人ずつ10分間喋らせるとなるとギャラは2000万円では足らない。それが810円+税で手に入るのだから安いというより買うほど黒字だ。

あえて先に名前は出さなかったが、僕はこの随筆選を読んで、幸田露伴ってスゲーおもしれえじゃんと思った。国語の授業のうすぼんやりした記憶のなかで、幸田露伴は小むずかしい話を書いた昔のエラい人くらいの印象しかなかった。そのイメージが「ウッチャリ拾い」という一篇の開始冒頭で見事に裏切られた。

 世間には随分いろいろな商売がある。その中でもウッチャリ拾い位おかしみのある商売はまあ沢山(たんと)あるまい。又世間には随分さまざまな事業もある。がその中でもウッチャリ拾い位豪気な事業はあるまい。と云ってもウッチャリ拾いの何たるを知らない人には一寸(ちょっと)分るまいが、一度実際にウッチャリ拾い先生のその神聖な労働を仕て居るところを眼にしたならば、如何なる人でも、アアウッチャリ拾いなる哉と嘆ぜざるを得まい。
幸田露伴『ウッチャリ拾い』

だから何だよ、そのウッチャリ拾いってのは。

続きは本篇で読んでもらうとして、僕はこういう畳み掛けや引っ張りに弱く、読むだけで頭がポヤーッとしてくる。この読後感、はてなどっかで読んだものと似ていると思えば、井上ひさし吉里吉里人』冒頭である。

 この、奇妙な、しかし考えようによってはこの上もなく真面目な、だが証明の当て具合ひとつでは信じられないほど滑稽な、また見方を変えれば呆気(あっけ)ないぐらい他愛のない、それでいて心ある人びとにはすこぶる含蓄に富んだ、その半面この国の権力を握るお偉方やその取り巻き連中には無性に腹立たしい、一方常に材料不足を託(かこ)つテレビや新聞や週刊誌にとってははなはだお誂え向きの、したがって高みの見物席の野次馬諸侯にははらはらどきどきわくわくの、にもかかわらず法律学者や言語学者にはいらいらくよくよストレスノイローゼの原因になったこの事件を語り起すにあたって、いったいどこから書き始めたらよいのかと、記録係(わたし)はだいぶ迷い、かなり頭を痛め、ない知恵をずいぶん絞った。
井上ひさし吉里吉里人』

3行目あたりから視界がグニャーとゆがみだす。シャツを脱がされ、ブラジャーのひもに手をかけられた女の気持ちである。もう、どうにでもしてくれ。あとはアンタに任せるよ。実際『吉里吉里人』の文庫本、上中下にわたる1500ページの大長編を読むあいだ、僕はひたすら貞淑な読者として、ご主人様の指図を待つペット犬のように目を潤ませながらヘラヘラしているのである。

ヤンキー、ヤクザは、しょっぱなからナメられないように格好や振る舞いに細心の注意を払っている。本の世界だって同じだ。本屋に来るような連中などは、時間つぶしと穀つぶしの2種類しかいないわけで、こぞって本好きだ読書家だと自称し、目が肥えていると自負するうぬぼれの半端者だから、どんな本を手にしても「どうせつまんねえだろ」とはなからナメくさっているわけである。だから作家はそんな人間のまぶたをするどい抜き身でええいと縦に切り込んで、昔おりがみでつくったパクパクのように、裏から親指と人差し指を入れて、上下左右にパチャパチャとまばたきをさせるようなむごい技を仕込む。

繰り返しになるが、僕はこうした仕掛けに出会うと、自分の手が届かないところでぶくぶくと膿を溜め込んだデキモノに、火で炙った針をスッと打たれるような快感に襲われる。ダメ押しの一手は中島らもだ。

 「動物の好きな人に悪人はいない」というが、あれは嘘である。悪いことばっかりしている人間には友達がいないので、絶対に自分を裏切らない犬だけを友としている、というようなことは十分に考えられる。「私は動物が好きです」と公然と言う人の顔を見ると、気のせいか遠まわしに「私は善人なんですよ」と言っているような一種の媚びを感じたりする。若い女の子が動物や赤ちゃんを見て、人前でめちゃくちゃに可愛がるさまを見たりすると、”あ、これは母性的な女を演出しているな”と深読みをしたりもする。外国の動物愛護団体が他国の食習慣にまで介入してきて声高にわめきたてるのを見ても、その狂信性や偽善性に不愉快になる。
 と、これだけ伏線を張っておけばもういいだろう。白状すると僕は動物が大好きである。
中島らも「私の好きなもの3」

こいつなら大丈夫だろうと思って泊めた男友達にちゃっかりケツの穴を掘られたような爽快感(?)である。ネジとネジ穴の関係が逆さになるのもたまには良いと思える。こういうのを製菓店じゃバウムクーヘン、哲学科ではアウフヘーベンと呼ぶ。

 

幸田露伴五重塔』の初代復刻版がブックオフにあったので買ってきた。

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(超シブいんですけど!)

五重塔』は岩波文庫にもある。しかし岩波文庫版は字が小さいうえに、漢字にルビがびっしり振られているので、読ませたくない契約書のこまごました規定の説明文のようで、なんだかダマされそうな気がしてお断りすることにした。

昔の岩波文庫はとくに文字が小さい。祖父は新聞を虫めがねで読んだが、岩波文庫となると大掛かりだった。まずはページを1cm四方に切り揃えて、その紙片をガラス板にのせていく。つぎに出来上がったガラス板を顕微鏡にとりつけて、レンズを覗き込み、スライドを順々に交換しながら読み進めるのである。いまは活字サイズ1.6倍のワイド版岩波文庫が刊行されているから、そんな煩雑な手続きは必要ない。ぼくも本当ならそっちが欲しいのだが、20代でワイド版を買うのはプライドに障る。モノがいっぱい入るからといって、ポケットだらけの釣り用ベストをふだんから着用できないし、いつでも座って休めるからといって、シルバーカーを押し押し歩くこともできない。老人用につくられたものに手を出すにはまだ頭に毛があり過ぎる。 

 

復刻版は字が大きくて助かった。

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しかし今度は仮名遣いが古くてまともに読めやしない。これこそ尋常小学校に通っていた連中の読み物だということに今さら気がついたのである。「私は、敢えて相手の得意な戦型に挑戦したいと思っている」と語る羽生善治のことばが、ここにきて毒のように効いてくる。

 

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