ぼぼぼくはハダカが好きなんだな

ブックオフで『裸の大将放浪記』全4巻を発見して即ゲット。

f:id:gmor:20160626000257j:plain

 

なんでこんなものに飛びついたのかと言えば、井上ひさしの『自家製文章読本』でこの本が引用されていて、その内容が強烈だったので、脳のしわに「山下画伯の書いたスゲエ日記がある」と刻み込まれていたからである。僕が驚いたのは次の文章だ。

 

・・・・・・・・

朝になって おきて歯をみがいている時 おばさんがぞうきんがけをしていて その時おばさんのひざとひざの間から腰巻きが見えて 腰巻きからおまんこが見えていたので おまんこはめったに見られないから珍しいので おまんこを少し見ていたら おばさんがおまんこをかくしてしまったので ひざとひざの間からおまんこが出たのを思い出すと おかしくなってしまった

朝飯がすんで 外へ行って 絵に色をぬっていたら しばらくたって 小雨が降って来たから家の中へ入って絵に色をぬりながら おばさんと話をした おばさんは下に腰巻きははいていてずろーすははいていないので ふるまるだから こんな話をするとおばさんは何を言うかと思って おばさんと話をして
「おばさんはずろーすはいているか はいていないか」
と言ったら おばさんが
「ずろーすはいている」と言われたので
「今朝おれが歯をみがいている時 おばさんがぞうきんがけをしていて ひざとひざの間からおまんこが見えた それでおばさんはずろーすはいていない」
と言ったら おばあさんが
「そんな話はしちゃいけない ふつうの話をしろ」
と言われておばさんが笑っていた
裸の大将放浪記 第四巻』p.109

・・・・・・・・

 

どうですか。あなたにこれが書けますか。

「おまんこはめったに見られないから珍しい」という宇宙的真理を、数学や哲学に頼らず、直観のみをもちいて導いてみせた山下清の天才をまえに、私たちは自分の愚かさを恥じて「そんな話はしちゃいけない、ふつうの話をしろ」と言って聞かせて良識という欺瞞のベールで麒麟児を包んでしまうのである。

口をひらけばしきりに「文体文体」と言う文科系プライドの高い人間がいるが、文体は天才だけが持つことを許されるのであって、ちょっとした文章術で見かけだけ好ましく印象操作したような表現には、山下清ほどの文体も存在していないのだと言ってやりたい。ある女流作家が「名前を伏せたら誰のものか分からないような、まったく非個性的な文章を書くよう心がけている」と答えたとき、まだヤングだった僕は「つまんねー女だ」と思ったが、読書するようになって彼女の言うことが分かってきた。「自分らしさ」は自己演出するものではない。自分のにおいを丹念に消してまわって、なお消えずに残ったものが自分のスタイルなのだ。

「給料のほとんどを服に費やしています」と語る服飾学校の生徒には悪いが、ひとの個性というのは、身にまとう洋服ではなくて裸に備わっている。残念ながらこれは受け入れるより仕方がない真実だ。考えてみると、みんなが工業製品みたいに同じ規格で統一されたボディを持つほうが恐ろしいのである。明日とつぜん全員の見た目が一緒になったとしたら、同じ声でベラベラ話す同じ人間の集まりから、どうやって自分の親、友達、同僚、上司を見分けるのか、また自分が自分であることをどうやって他人に説明するのか、自分は何であることによって自分でいられるのか。不細工、薄毛、肥満、低身長、体臭、ニキビ吹き出物、一重、短小包茎という肉体の条件が急に恋しくなってこないか。文体と裸体は、それが自分の意志ではどうにもならない、天からの授かりものであるという点で酷似している。服を着て短所を隠すか、裸で踊って文体を得るか。この二者択一である。

ビッグダディの元嫁による自伝『ハダカの美奈子』を立ち読みすると、15歳のときにヤクザからシャブセックスを強要されてラブホテルから裸足で逃げ出したという記述があった。しかしその記述には文体がない。つまり美奈子はハダカではなかったのである。裸と宣伝しておきながら「ずろーす」を履いているのだ。この茶番に付き合わされた読者の怒りを反映して本書はきちんと108円コーナーに収まっている。

 

広告を非表示にする