おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

ひとをワクワクさせる方法

NHK教育テレビの子ども番組『つくってあそぼ』でメインパーソナリティをつとめたワクワクさんと子どもの頃に会ったことがある。

パーソナリティというが、番組に登場するパーソン(人間)はワクワクさんだけで、あとはアシスタント担当のクマが1頭いるだけだ。このクマは服を着て、日本語とハサミを器用にあやつり、愛称のゴロリで呼ばれる。ゴロリとワクワクさんは、子どもにとって身近な素材、たとえばティッシュの空き箱、トイレットペーパーの芯、折り紙をつかって「くるま」や「ひこうき」を作り、わいわい遊んで暮らす。

一歩ひいて番組をみると、霊長類のトップに君臨するヒトが、非文明の象徴である毛むくじゃらのクマに、工作の知恵を授けていくという構図がある。そこでほんとうに製造されているものは、優れたものが劣っているものを教化し、文明化することが善であるという文化帝国主義の価値観である。ワクワクさんは優しい笑顔のしたに侵略者の顔を隠している。

近所の児童館で遊んでいたとき、尿意を催してトイレへ立つと、すぐ後ろから中年の男が入ってきた。ベージュのスラックスに、スーパーの服売り場で買ったようなダサいポロシャツを着ている。ルックスはつまらない地理の先生そのものだ。男は足ばやに僕のとなりにつけた。「ほかにも便器はあるのに、どうしてそばに来たのか」と不信に思って男を見上げると、はじめて目にするはずの男の横顔に妙な親近感を覚えた。それもそのはず再放送あわせて週2回はテレビで見る顔だったのである。この日は児童館のイベントに呼ばれていたのだ。

ワクワクさんがただのおじさんだったという事実、そしてそのおじさんが30cm横でチンコを握り、放尿しているという事実にうちのめされた。はじめて見るTVタレントに釘づけで、とっくに用を足し終わっていたが、パンツを上げるのも忘れて、中年おやじの小便に夢中になった。ワクワクさんは、そんなガキに目もくれず、筆先をブルブル振るわせると、茶色の便所スリッパを床に叩きつけるようにして洗面台まで歩き、鏡のなかの顔をパッと覗き込むとそのまま手も洗わずに出て行った。あのとき「ワクワクさん?」と声をかけなかったことを今なお後悔している。

僕がもっとカワイイ子だったら別の展開もありえたはずだ。幼児番組で子どもを喜ばせることに生きがいを感じるようなキャラクターである。そそる子どもを見つけるたびに、番組見学をエサにして、そのための試験だと偽り、子どもの尻の穴をうまい具合に工作するかもしれない。ときには幼児をトイレの個室に連れ込んで、「ほら触ってごらん。ワクワクさんのズボンのなかに珍しいスティックのりがあるだろう。でも残りわずかしかないんだ。みんなと工作するためにはのりが必要だ。スティックを一緒にしごいて、のりを出すのを手伝ってくれないか?」と持ちかけて、何も知らない子どもを秘密のアシスタントに抜擢することもあるだろう。その意味では共演者のクマもとっくにワクワクさんのテディベアとして慰みものにされていると考えるのが妥当である。

ワクワクさんはものづくりが得意だ。その気になれば石油パイプラインでも有毒化学工場でも原子力発電所でもなんでも作ってしまう。それは性癖もおなじで、女性のからだにあらかじめ用意された製作済みの穴なんかに興味はなく、動物や少年にもともと別用で備わっている臓器のなかに、工作の可能性を見出していく。それが創意工夫であり、クリエイティブというものだ。

人は自分がワクワクする方法でしか、他人をワクワクさせることができない。それは科学史に残る大学者から、チンケな露出狂にいたるまで、創作活動をおこなうすべての人に共通する法則である。論文の発表もトレンチコートのおっぴろげも、ようは自分が興奮しているさまを見てください、ということなのだから。あとはどれだけそのマスターベーションが見るものの共感を呼び、気持ちを高ぶらせるかである。「感性(センス)」ということばが「性感」とシンメトリーなのは偶然ではない。

児童館のトイレでワクワクさんと再会したら、あの日と同じように横に並んでパンツを降ろし、僕の成長したセンスを見てもらいたい。あとは2人の性感のおもむくままに「くるま」や「ひこうき」をつくって遊ぶのだ。

 

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