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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

音痴、音楽の語りがたさを語る

暮らし

今回は音楽のはなし。

過去に一度も音楽を話題にしたことがない。それはぼくが音痴だからである。

音楽会の練習で音痴に気がついた。舞台のひな段にずらっと生徒が並んで歌うなかで「あなた、あなたの音程が狂ってるからおかしなことになってるのよ」と、銀のメガネチェーンをぷらぷらさせた悪趣味の音楽女教師に直接指摘されたのである。尖った指揮棒で胸元をぶすぶすと刺されたような痛みが走る。

それから人前で歌わなくなった。4分音符を見ると足がガクガク震えだし、メガネチェーンを見ると吐き気がする。口パク人生の始まりである。

音楽会ではPTAの奥様方がご自慢の美声を披露されるが、その時にきまって「あのオバハンは口パクだぜ」と生徒間で笑いが起こっていた。まじめに歌っても口パクだとバカにされるのだから、はじめから歌わないでいるほうが遥かに利口なのである。

原付バイクで走りながら大声で歌う青年を見かける。通行人がみな、じぶんと同じ耳の風切り音に包まれているとカン違いしての愚行だ。しかし歩く人は、運転者のように時速40kmで疾走しているわけではない。歌声は、4ストロークのスムースなエンジン音をしたがえてクリアに伝わる。その滑稽な姿を見るたびに自分が歌えない人間で良かったと胸をなでおろす。

歌うのヘタなら、聴くのもヘタだ。文章を書けない人が、本を読めないことに似ている。「演奏がうまい」「歌がうまい」という時の「うまさ」が分からない。

小説なら理解できる。たとえば『草枕』の冒頭。

山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

このイントロをリピートするだけで後の物語は読まなくてよいくらいである。

更にすごいのは三島由紀夫の『愛の渇き』だ。

悦子はその日、阪急百貨店で半毛の靴下を二足買った。

という一文で始まるのである。あーあ、靴下買っちゃったよ。ほんとは靴下なんか買ってる場合じゃないだろ? と読んだそばから悦子の行く末が心配になってくる。

文章の巧さは理解できても、音楽のテクニックには反応できない。音符の扱い方、楽譜の読み方、演奏法、音楽史に至るまで一切の知識を欠いているせいだ。技巧の工夫をキャッチするセンサーがそもそも体に備わっていないのである。これも音痴の体質である。

 

音楽の経験をことばにできる人を尊敬する。ブログでも、CDレビューをさらっと書いている人がいるが、正直ねたましい。自分にはできない芸だからである。

音楽は、その良さをことばで置き換えて伝えることが難しいアートだと思う。文章なら、さっきやったように、文字をそのまま引用して語ることができるし、映画なら、ことばよりも具体的な画像や映像を借りて、あるいは素材を借りなくとも、脚本がことばで書かれている以上は、同じことばをつかって説明できるものだ。

しかし音楽の場合は、「第1楽章32小節」と場所を指示することはできても、音符記号の並びをそのままことばに移し替えて表現することはできない。つまり、はじめから比喩を語ることしかできないのである。

 

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(だからといって楽譜を引用されても困る…。/小林秀雄『モオツァルト』)

 

お笑い芸人でも、事態や状況をなにかに別のことばに置き換えて、ボケたりツッコんだりできる人は腕があると言われる。哲学者に言わせれば、「いかなる事物についても、それが何であるか捉えようとすれば、まず比喩から出発しなければならない。……だからこそ目ざましい比喩をあげ、すぐれた比喩を見せてくれる人は、明らかに深い理解力の持ち主である」(ショウペンハウエル『読書について』)。

こと音楽を語る際には、この「たとえ」力みたいなものが常に要求されるために、頭のはたらきの鈍い人間は、その場で立ち尽くしてしまうのである。「たとえ」芸ができないなら、アーティストの生い立ちや活動経歴といった着実なネタを拾い集めるより仕方ないが、そんなことをしてまで音楽を語るほど、ぼくはこの音楽というやつを好んでいないのである。

この記事を書き始めたのは最近買った1枚のCDを紹介したかったからだ。Jazz at Lincoln Center Orchestra with Wynton Marsalis の『LIVE IN CUBA』である。いままで述べてきた理由により、その感想はここから口パクで語らせてもらう。 

 

 

 

 

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