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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

詩・私・死

 

ひとは鼻水がいったいどこから湧き出るのかを想うとき、8次元宇宙の存在を確信する。ぼくはその日、霊感に導かれて体温計のモニタに「37.5」の数字を見た。

週1で参加するボランティアを今日は休もうと考えたが、現場で知り合った女性(以降V子)と本を交換する約束――「明日なんか本もってくね」「じゃあぼくもV子さんの気に入りそうなやつを持って行きます」――を思い出し、この約束は破れないと思って、口のまわりにゲロをくっつけたまま、ちぎれた脚を杖代わりにして前進し、一歩進むごとに松井秀喜のフルスイングを首筋に受けるような頭痛に耐えながら現場へ向かい、一日の作業を終えた。 

 

どんな本を薦めるか。これは読書好きにとって全読書経験をかけた大勝負である。あいにく女子が喜びそうな本は一冊も持たない。

開高健の『知的な痴的な教養講座』をとり出して、「陰部にイチゴを入れて行為を楽しむ老夫婦の話が出てくるんだ、ほらここだよ。『で、つぶれちゃったらどうすんの?』と開高健が聞くわけ。そしたら男『そりゃ、抜いてから舐めるんですよ。舌を入れてイチゴを吸い出す。そいつを舐めるわけ。これがまた、なかなかいい…』。イチゴ味の粘液ってどんな味かな?うひひひひ」と黄ばんだ歯をみせて笑えば、嫌われるどころか冷たい塀の中で一生暮らすことになる。 

 

読書の楽しみは、普段の生活でひとが見せない真皮のヒューマニティに触れるところにある。教科書に掲載できない本にこそ人生の教科書としての価値があるのだから、アラサーOLが風呂上がりにフェイスパックをしながら手にする軽い読み物など、人に薦めたくない。 

読書好きの偏屈なプライドを守るか、女性ウケを狙うか。この二択、ぼくは迷わず後者をとりたい。「本を捨てたら抱かしてあげる」と言うなら、家にある紙という紙、筒井康隆の全集から健康保険証にいたるまで、すべて火にくべて、この胸に秘めたる思いをその火炎のきらめきで表現してみせよう。  

そう、答えは詩である。V子は詩が好きで、よく詩集を読むと言った。ぼくは詩情をまるで解さない野暮天で、すでに二人の相性は水と油なのだが、これまで何度かチャレンジして失敗したときの素材が都合よく残っている。

それが斎藤茂吉の歌集であり、北原白秋高村光太郎萩原朔太郎の各詩集である。しかし、きょうびの女子――ましてご当地キティちゃんを集めるような女の子が北原白秋を読むだろうか。「新浪漫主義の詩風、よござんすなあ」と扇子を傾けながら口走ったりするだろうか。スマホをいじりながら、横目に「あ?」と一瞥をくれて終わりである。ここは万人受けして読みやすい、なにより教科書にかならず掲載される現代詩人・谷川俊太郎の詩集を持っていくのがよいだろう。

 

大阪駅地下の喫茶店で、谷川俊太郎の詩集『これが私の優しさです』をカバンからとりだし、ファッション雑誌のメンズモデルのようにいかにも知能指数の低そうな笑顔で「これを持ってきたんだけど」と差し出すと、V子は、ピンク色の花柄カバーのついたiPhoneの上から、ラメ入りのピンク色ネイルをつけた親指をすっと離して、なにも言わず、路面清掃車のブラシのようなつけまつげで2回空中を掃きあげると、またスマホいじりに没頭し始めた。

この女め。こちらは苦労して選書をかさね、1冊の本すら重荷に感じる病身でわざわざ持ってきてやったのに、ひとことの世辞も言わずに平然としていやがる。いままで男から受けた愛の告白百様相については、こちらが聞かぬうちから唾を飛ばして口達者にまくしたてるくせに。

この女は自分が好きなのだ。この女が愛するのは、「私が好きになった男」ではなく「男が好きになった私」なのだ。こと自己愛に関しては、ぼくだって人に負けることを知らない。現状にたいする甘えや妥協、努力怠慢はすべてこの病的な自己愛から発するものだ。しかしこの女ほど露骨に、皮膚の最前面にじぶんへの愛をみなぎらせるほど大それたうぬぼれ屋ではない。まったく釣り合わない陰と陽、反発する磁石の両極のようでありながら、なお2人の関係がしたたかに継続するのは、肥大した自己愛という現代特有の人格的な病いが共鳴するからではないのか。 

 V子との談笑中、めったに電話をかけてこない父から着信があったが、話の中断を嫌って取らなかった。ぼくはその内容が、以前から入退院を繰り返していた88歳の祖父にかんする悪い知らせであることを確信していた。しかし、電話を折り返すまで事実は分からない。ぼくは状況の確定を意図的に遅らせて、「すっぴんだったら、たぶん誰だかわからないよ」と言って聞かせるV子が、風呂上がりにみせるだろう血色の良い素顔を想像し、空想でその小さい唇を犯した。  


V子と別れて帰宅後すぐ病院に向かった。「もうダメらしい」と父からメールがあったからだ。雨の降るなかバイクでひた走り、路面の小さな段差を乗り越えるたびに朝から続く頭痛がずきずきと後頭部を刺して、吐き気がこみあげた。病室に入ると、呼吸器をつけてあえぐ祖父の姿があった。

ビニール地のような皮膚のあちこちに、破れた血管のつくる内出血の痕が透けて見える。意識はとうに失われ、こちらの呼びかけにも応じることはない。息苦しいのか、口を大きく開けて、呼吸のたびに喉をぜえぜえ鳴らし、悪夢から逃れるように首を左右に振ってもがいていた。祖父の手や頭に触れると、ぼくの発熱のせいか、暖かではなく、じっと冷たい感触がした。

母とその妹は、手分けして祖父のオムツを外し、便に血が混じっていることを確認すると看護師を呼んだ。やってきた看護師は、右手の親指と人差し指で、祖父の縮こまった土色の陰茎をひょいとつまみ上げ、左手の雑巾で股間の汚れを拭きとった。ぼくはこのとき、大江健三郎の「インポテの毛だらけの里芋」という比喩を思いだした。白髪のちりぢりになった陰毛の下に横たわる、やさしい丸みを帯びた祖父の陰茎は、植物の姿そのものであり、心でなんども別種の形容を試みたが「里芋」のイメージが頭から離れられなかった。看護師は、祖父を横向きに寝かせ、同じように尻のあいだに深く布を差し入れて、テーブルの水垢を消すように、血まみれの肛門を清掃した。

 

祖父はそれから1時間ほどして死に、数日後こぢんまりした家族葬で送られた。遺品整理という名目で、なにか面白いものはないかと祖父の書斎にあがり、机やタンス、物置のなかを調べると、詩の同人雑誌が束になって見つかった。

仲間と交わした手紙もきれいにファイリングされていて、なかには「あなたの詩集を手にとり、すぐに初めから終わりまで読んでしまいました」という好意的なものもあれば、「現代では繰り返しの『〻』という字は使いません。また『こゝ』という表現も古いです。いたずらに詩作されるのではなく、一度きっちりと勉強されてはいかがですか」と辛辣なものもある。ぼくなら否定的意見を述べた手紙などはすぐに破り捨ててしまうが、律儀にじぶんへの戒めのためにとって置くところなど、孫とは格別の心の広さを感じさせる。

祖父は死ぬ直前まで「病床日記」と銘打ったノートを持ち歩き、「体温:37.5℃」「便:多く出る。快腸!」と毎日記録して、ベッドのうえでも趣味の詩作を続けた。その手帳には、美しい筆記体で次の英文が書きつけられている。

Stay Hungry. Stay Foolish.

スティーブ・ジョブズが大学の卒業式で行ったゲストスピーチの結語である。テレビか新聞でみて知ったのだろう。この言葉を手元に忍ばせて、わずかな余命を生きた祖父のことを素直に格好よいと思った。

 

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