先週のお題「私がブログを書く理由」

遅ればせながら「ブログを書く理由」について。

舞い上がったこころを落ちつけて、平常運行するには、このくらい波風の立たない話題を選ぶほうがよい。テレビだってそうだ。明日わが身を待ち受ける運命を忘れるには、あの四角い受像機をみつめて、つまらない映像が入れ替わるすきにじぶんの不安をまぎらわせるのが一番である。

だから「テレビがつまらない」と文句を言うのは間違っている。つまらないもので退屈をまぎらわしてくれるのがテレビなのだから。疲れきった脳みそへ生命倫理に関する最先端の議論を突きつけられても、ぼくらに残された精神力では、リモコンのボタンの上にそっと親指を滑らせることだけが精一杯である。指先で遊ぶのはリモコンであれスマホであれ陰茎の余り皮であれ、ぬるいたわむれが現代の余暇の過ごし方というわけだ。ぼくにとってブログを書くとは、そういうものの延長線上にある。

社会学に「動機の語彙」という考え方がある。ぼくらは、自分の行動のわけを説明するときに、もともと個人に内在していた動機ではなく、外部にあらかじめ用意された、ありきたりな動機をあつめた辞書=「動機の語彙」から、お手頃なものを引用してくる、というものだ。

要するに、ぼくらは周りの人たちが納得してくれるような動機を持ち出すことで、じぶんの行動を常識的に理解可能なものにしているのである。他者の行動についても同じことがいえるので、詐欺師から痴漢、通り魔はみな「日頃のストレスでむしゃくしゃしていた」せいで悪事を働いたことになっている。

1人でしこしこと書き溜めた手記を全世界へ向けて開陳するきわめて不可解な行動、つまりブログを書く動機として使用されるのは、どういった語彙だろうか。それは「文章力向上のため」「自己表現のため」「承認欲求を満たすため」「情報を共有するため」「頭のなかを整理するため」である。

実際がどうであれ、これらの動機を持ち出せば、じぶんのブログ執筆、つまり暗がりでトレンチコートをがばっと開き、剃毛したての陰部をこれでもかと見せつけるような変態的行為を犯しても、それが社会に通用する説得力をもち、「そう言うならば仕方がありません」とメガネの風紀委員は追及をあきらめる。

なにも「おまえの挙げた理由は場当たり的なウソだ!」と責めたいわけではない。むしろブログを書く上でそうした動機を持ち出さねばならない状況のほうが問題なのである。1行の日記であれ、じぶんの手になる創作物を衆目にさらしたときに「えっ、なんでそんなことしてんの?笑」という冷ややかなまなざしがそそがれる雰囲気こそが問題なのだ。(「世間はそんなに敵意に満ちているわけではないよ」という言葉は、弱者に向けられた超一級の敵意である。)

生まれついてのバカかテンサイなら、ひな壇芸人の茶化しにかまわず、観客の無反応をよそに、ステージで渾身のギャグを披露し続けられるのだが、中途半端に賢く、それでいて臆病な人間は、背をむけて台本をパラパラとめくり、状況をやりすごす安易なセリフを探してしまう。

「ブログを書く理由はなにか」と訊かれたら「ありません」と答えたい。この動機の不在は、ありふれた語彙の寄せ集めより、はるかに雄弁に書くことについて語る。

山へ登るのに「健康増進のため」と答える人より「そないなことは考えたことおまへんさかいに分からしまへんけど、なんやそこに山がおますさかいに」みたいなことを言う人間のほうがずっと登山という営為そのものに接近している。びくびくして「やる理由」を探しているようでは、いつまでたっても変態にはなれないのですぞ。

 

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