おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

再燃する三島由紀夫ブーム

『午後の曳航』という、船乗りと少年のおぞましい話を読んでから、三島由紀夫の才能にひれ伏し、古本屋にあるだけ買いあさる。

三島由紀夫の小説は、文学青年をきどる人間の必読書みたいな位置づけで、いちおう手は出してみるが、世間のミシマファンみたいに、ボディビルで鍛えた彼のたくましい胸板の隆線にそっと舌をはわせてその汗の味を確かめたいと願うほどに熱狂はしなかった。「再燃」と言うが、はじめの火は、近所の悪ガキが枯葉をあつめてマッチで燃やす、遊びの小火だったのである。

なじみない単語が、なじみない修飾によって、なじみないイメージを喚起する結果、読めば読むほど、なじめない。三島由紀夫ほどの天才になると、人が一度に処理できる要素数を超えた複雑な文章を、毎朝トースターに食パンを入れるような手つきで、いとも簡単につくってしまう。

その読書は、記憶に難ありの読者にとって大変つらい。ぼくは、箸でつまんだ食材がなんであったか覚えられず、つぎの呼吸は吸うのか吐くのかも忘れて死にかけるほど記憶力がない。頭におさまった「記憶」のボロ倉庫は、もともと四畳しかない上に、トタン製の錆びた壁面に大穴がぼっこり開いていて、猫やら犬やら「アパッチ族」風のルンペンがつねに出入りし、中にあるものを手当たり次第に持って行ってしまう。そこへ、三島由紀夫の重くて、かさばる文章を運んできたらどうなることか。文章の主語を倉庫口に差し込んだところで、午前8時の駅構内で演じられる、係員と乗客の押し合いへし合いの攻防が再現されるだけである。

三島由紀夫の小説は、教養的箔付けのために読んでも、自ら好んで読まない。それは自分のノータリンを強烈に自覚するためであった。しかし大人になると悪知恵やら手抜きの技法をいろいろ身につけるもので、最近ではらくに通読できる。面喰らうかもしれないが、その秘密は端的にいって、読まないことである。

むかし、中学の国語のテストで「『枕詞』はどう読みますか?」と問われた。友人は空白をもって答えるでもなく、「わからない」と書くでもなく、あろうことか「読まない」と回答した。その結果、答案用紙から血が噴き出したかと思うほど大きなバツを受ける。しかし発想の奇抜さでいうと、この解答には100点の価値がある。

「読まない」という凛々しい意思表示、大人の用意したクソったれの質問につばをひっかけるような、突きぬけて爽快な反逆の精神。その男は、不良生徒でもなければ、知的野蛮さを秘めた学者肌の早熟児でもなかった。要領の良いヤンキーが2時間勉強しただけで受かる高校に、2ヶ月間みっちり昼休みまで返上して勉強したあげくに入学できないような、つとめてまじめなバカだったのである。しかし彼は、当時の同級生がだれも到達しなかった青春の成果に期せずしてたどり着いた。

読まないのである。計算ミスを探すときのように、一文一語を手にとって調べ上げるのは愚かの極みだ。美術品をひとつひとつ念入りに鑑賞するのではなくて、品物を展示する美術館じたいを速足で駆け抜けるだけで良い。その際、とばし読み、ながし読み、ななめ読み、よこ読み、うら読み、さかさ読み、すかし読み、ぬらし読み、めつぶり読みのテクニックを駆使して、三島由紀夫特有の、逐一鑑賞をせまる文章の媚態をたくみにすかして進むのである。

ぼくの愛する作家、井上ひさしは著書『自家製文章読本』のなかで繰り返し三島由紀夫を批判している。大衆小説をバカにしたような態度と、その美文調の文章が気に食わぬと言うのである。わかる。わかるが、これは嫉妬だ。井上ひさしという稀代の文章家が、じぶんが敵わぬ才能をまえに絶望し、妬いているのである。なにも、この段落の狙いは、三島由紀夫の神聖視にあるのではない。むしろ井上ひさしの凄さを主張したいのである。つまり、並の人間には三島由紀夫という遠すぎる存在にたいして嫉妬を覚えることすら出来ないのであるから。

 

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