読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

つくったものをさらす勇気

f:id:gmor:20160410211634j:plain

 

今まで散々、自己啓発書をバカにしたようなスタンスをとってきたが、何を隠そうぼく自身がもっともその類の本に頼って生きているのだから困ったものである。

人の言行は一致せず、むしろ正反対なことが多い。アメリカのゲイ反対運動の首謀者がじつはゲイだった、というのはよくある話だ。ほかにも女嫌いの女好き、男嫌いのジャニーズオタク、ヤンキー娘とは付き合えないと言う男が夜な夜な黒ギャルAVで抜いていたり、子どもたちに健全な道徳教育を施すべき小学校の校長がタイで小学女児と同じ年齢の売春婦を買い漁っていたり、「覚せい剤うたずにホームラン打とう」という野球選手がシャブ中だったりする。

見た目のきれいさを信じると痛手をこうむる。『99%の人がしている悪い習慣を捨て、たった1%の成功者になれる本』を大枚はたいて買って読むより、古本屋で手に入れた『毒物雑学事典』のほうがはるかに有意義である。美しく着飾った言葉は信用ならない。「信言は美ならず、美言は信ならず」(by老子)の通り。 

f:id:gmor:20160411000529j:plain

 

――とはいえ、である。
個人がこの社会のうねりと闘うとき、どうにも心細くなることはある。不安なのは、まさにこのブログを含めた、個人的な創作の場面である。つくったものを人前にさらすには勇気がいる。とくに臆病で、平常びくびくして過ごしている内向的な人間(ものを書いて発表しようという奴は大体この手合である)は、神経質で強迫症的で、傷つきやすいぶん、もやもやを溜め込んで創造的になる側面もあるのだが、アイデアは浮かんでも、それを実行する際に、精神面の壁がじゃまになって、誰からも文句がつかないようなもの、つまり、つまらないものを産み出そうとする。

才能を解き放つ、といえば中二病くさいが(「天才とは、意識的に回復された幼児性である。」by ボードレール)、少なくとも自由に表現したいと思うわけだ。そこで自分を励ましてくれるコトバを探して、やる気のでないとき、勇気のくじけたときに読んで力を溜める。これは各自の好みの問題で、ももいろクローバーZの曲の歌詞から古事記の一節でも構わず、ぼくの場合は気に入った作家の名言をコラージュして作った画像をみる。

 

f:id:gmor:20160410211653j:plain

 

「考えることは創造性の敵だ」という指摘は、コーヒーに溶いて毎日飲みたい。考えているヒマがあったら、手を動かしたほうが早い。そもそも、あらかじめ考えていたことを紙に写しとるのではなく、書き上がったものが結果的に自分の考えになるのであって、事前にどんな壮大な計画をしても、他人と共有できるカタチでないものは考えと呼べないのである。『攻殻機動隊』のように電脳化した人間がケーブルを通じて頭のなかのアイデアを直接交換できる時代にならぬかぎり、残念ながらぼくたちは石盤にノミを振るうのと同じ原始的な方法に頼って意思疎通するしかない。

多くのコミュ障はカン違いしているが、考えすぎるくらいなら、なにも考えていないほうがはるかに優れている。おばはん連中の会話を聞いてほしい。齋藤孝は、おばはんのおしゃべりを「無意識の垂れ流し」と言って戒めるが、内容に実を求めすぎると毒になる。合理化の極地では、電報のようなムダのない会話が理想となる。

「チュウモンハ」
「カレー」
「カレーナイ」
「ナラバウドン」
「ウドンモナイ」
「ナニガアル」
「カレーウドンハアル」
「フザケルナ」

おばはんの会話内容は実にくらだらない。しかしそれは、やりとりの形式じたいに喜びなりストレス解消なりの実を得ているわけで、見かけよりも深い意義がある。人間より優れた分析力をもつコンピュータが、細木数子的な人気占い師にならない理由はここにある。つまり、人が求めているのは、最適解ではなく、解を導く手順そのものなのである。

 

広告を非表示にする