おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

抜け作

 

最近思うこと。

齋藤孝の『「3」の思考法』を読んだ。まーた「すごいアイディアが降ってくる」なんて、この手の本にお決まりの宣伝文にだまされて、手を出してしまった。いまから私は、1000円払って買ってきた本のなかで唯一「これは!」と思った箇所について話すのだから、ケチくさいイメージが払われないと気の毒だ。

さて、日本の古典芸能には「守・破・離」ということばがある。芸事を極める3段階のステップを指す。まずはじっと我慢して修行をかさねて基本となる型を「守」る。その型が身体に染み付いて、ようやくそれを「破」り、自分の芸が立つ。最後は型という考え方そのものから「離」れて、達人の域に達するというものだ。

「型破り」とは、型があってはじめて成立するもの。型をおろそかにして、とにかく何かを破ろうとする気持ちだけが先行した場合、それは「型なし」となる。うーん、なんか深くね?

映画監督・紀里谷和明は、じぶんの作品をボロクソ言う批評家にたいして、「連中は、映画の教科書に従っていない映画をことごとくけなす。しかし、そんなものに従っても面白いものはできない。誰もやってないことがやりたいのだ」という旨の発言をしていた。これこそ型なしの典型パターンではないか。既存の映画文法を踏襲しながら、あえて一部のルールを破ることで、はじめて映画にとっての「あたらしさ」や「おもしろさ」が得られるのだと思う。紀里谷監督の映画に限らず、観るもの読むもの触れるもの、見てくれは立派でも内実が薄い創作物のがっかり感はすべてこの「型透かし」に始まっているようだ。

養老孟司は、オリジナリティについて次のように述べる。

  • ほんとうにオリジナルな考えで、ほんとうにオリジナルな感情で、ほんとうにオリジナルなことをしたら社会でどうなるか。そういう人を私はたくさん知っています。そういう人は全部精神科のリストに入っているというのが私の経験です。結局、いうことで、することで、感じることで、他人と共感しない限り、他人が共感してくれない限り、実は意味がないのです。意味がないどころか、しばしばそれは排除の対象になります。『スルメを見てイカがわかるか!』

型とは、他人と共感するための土台である。型なしのまま「バカな奴にはオレの言うことなんて分かんねーよ」と開き直るのは共感以前の狂気に閉じこもることだ。

だから古人に学び、古典に従うべし、と結論づければ丸くおさまる。が、すべての行程のなかで、この型を守る練習が一番つまらないという大問題はだれが解決してくれるんでしょうか。

 

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