おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

仮名

 

他人の夢のはなしは驚くほどつまらない。
そんなこと言わず。なるべく驚かさないように努めたから、読んでほしい。

夢日記をつけるようになった。先日放送の『すべらない話』でバカリズムがこんな話をしたからだ。彼はコントに使えそうな夢をみると、起きてスマホにメモをとる。その日、夢の内容がいつになく優れたアイデアだと確信した彼は、メモを残してまた眠りについた。二度寝から醒めてメモをみると「お尻にしっぽの生えた男の物語」「ドラゴンボールを7つ集めると願いが叶う」とある。寝る前に読んだ漫画『ドラゴンボール』の設定がそのまま夢に出てきたことに気付かなかったという話だ。

夢にはメモする価値がある。彼が夢にみた『ドラゴンボール』のアイデアは、たしかにコントでは使えないが、その話じたいが『すべらない話』のネタになったのだから、結果的には使えるアイデアだったわけである。要するに、一見どんなにヘンな夢であっても、どこかで役立つ日がくるかもしれない。とくに私みたいな、好きで始めたブログを書くのに毎回ひどく苦しんでいるような人間には、頼るべき最後のフロンティアである。

夢からアイデアを得る人は多い。筒井康隆もその一人だ。『着想の技術』では、自身の夢メモをつぶさに紹介しながら、創作への可能性を説く。そもそも彼は心理学科の学生であり、通学の車中でフロイト全集を読破している。どの作品を読んでも、人間心理のとらえ方の基礎にフロイトの影響があることがわかる。たとえば代表作『パプリカ』は他人の夢に入りこんでトラウマを治療する精神科医の物語である。

筒井康隆は言う。

「夢で見たことをそのまま小説にすることの文学的妥当性について、やはり最後にひとことだけつけ加えておかねばなるまい。このエッセイだけ読まれたかたは、『それではお前はまるっきり夢の文学性を信じているみたいではないか』と思われるかもしれない。実は、根本的にぼくはそれを信じている。」『着想の技術』

他人の夢は概してつまらない。ふつうの話者や書き手では、話に臨場感が出ないし、はじめから夢オチがわかっているストーリーを聞かされても真剣になれないからである。しかし強力な道具と技術で迫れば、鑑賞に堪える芸術作品ができることを筒井康隆は証明している。もちろん彼の小説がすべて夢をもとに書かれたわけではない。大体50冊に1冊と本人はいう。その数は決して多くない。しかし彼が「現実と虚構」と格闘する作家である以上、夢はつねに発想の源泉であり、同時に文学の目標でもある。

私はそれほど大きな役目を夢に負わせるつもりはない。ある友人のように、どんなに考えても解けなかった数学の問題が、寝て起きたら解けた、ぐらいのご利益があれば万々歳なわけである。この友人にしても、寝る前にさんざん頭をしぼったからこそ夢のほうで反応があったわけで、自分ではたいして頭も使わないくせに夢にだけ働いてもらおうとは虫がよすぎる話ではないか。アンドロイドが電気羊の夢を見るように、バカはバカなりの夢を見る。一日じゅう女とバイクのことしか考えていない不良学生が、ある日の夢で突然、リーマン予想を解くヒントを得ることはない(逆に毎日数学のことしか考えていない学者に、イカしたカスタムパーツの図案は降ってこない)。つまり夢は暴露する。日頃なにを考えて暮らしているのかという生活の恥部を。

私の夢日記「2016/01/27」の全文である。

  • なにかに登録するためにコンビニで偽名を名乗る。かたむきみちお。肩くま耳よしお?(肩にクマ耳のついたダウンベストを着ていたため)。鈴木にキャスター5ミリを奢ってもらい吸う。煙たくてまずい。

タバコを買うには登録証がいると店員に言われ、私は「かたむきみちお」と名乗った。しかし「それでは買えない」と断られたので、「肩くま耳よしおです」と言い直すとタバコが手に入った。レジのシステムはよく分からないが、このとき夢ながら本当に嬉しかった(タバコをやめて5年経つのにまだ喫煙欲があるのか)。ちなみに鈴木とは実在する友人である。

なぜこの夢をみたのか心当たりがある。当日の夜、風呂に浸かりながら「みうらじゅん」っていいペンネームだよなあ、と考えていた。オレもそんな名前がほしい。いろいろ思案した結果「じゅん」をもらうことにしたが、あわせる苗字が四文字だと語呂が悪い。あきらめたが、本心ではあきらめきれず、夢のなかで「かたむきみちお」「肩くま耳よしお」をでっち上げたのだ。ありがとう。ちょうど、さびれた演劇場で漫談芸を披露するオッサン芸人のような名前が欲しかったところなんだ。そんなわけで今日から私はかたむきみちおと名乗る。肩くま耳よしおは、まじで頭のおかしい奴だと思われそうだから、ちょっとイヤだ。

遠藤周作は読者にむかって複数の名前を持てと言った。彼自身、狐狸庵山人(こりあんさんじん)の別名でいくつも作品を書いている。

遠藤周作のほかに狐狸庵という名をつけた。おかげで遠藤周作では『沈黙』や『イエスの生涯』などの世界に生きることができたが、他方、狐狸庵としては、エンターテイメントの小説やユーモア小説を書くほか、実生活でも日本一の素人劇団をつくったり、音痴の合唱団を結成したりして生活を楽しむこともできた。」『周作塾』

社会生活につかう実名と、個人生活での名前を使いわけろと言う。仮名を持てば、「生活のディメンションが拡がってくる」。まじめな人間ならチャラけた名前でバカをやる、逆もまた然り。芸能人が芸名で活動するのは、本名がパッとしないのもあるが、芸能界という晴れの舞台で、観る者ののぞむ理想のペルソナを演じるからだ。芸能人は、社会生活と個人生活が混濁してくるところが悲痛なのだが、一般人であればその心配なく、別名の自由を大いに楽しめる立場にある。

作家には別号を持つ者が多い。井上ひさし『巷談辞典』におもしろい例がある。明治時代に『美女所有器調べ』という冊子がでた。所有器とは女性器のことである。冊子には、「明治性相十二品」という付録がついており、当時の男性が思う理想の器がランキングされている。5位まで抜粋すると以下のとおり(孫引きご免)。

一 高(上つきのこと)
二 豆(小さいこと)
三 噴水(中から噴水の如く愛液あふれる)
四 雷(口が大きく派手な音をたてる)
五 蛸(しまりよし

カッコ内の説明は井上ひさしによるものだ。初夢は一富士二鷹三茄子、名器は一高二豆三噴水と覚えれば明日からの生活も「蛸」となる。この冊子の作者は、冷々亭杏雨(れいれいていきょうう)、またの名を二葉亭四迷と称する作家である。彼の場合はどちらもペンネームだが、遠藤周作と狐狸庵山人のように、ところに応じて名前を使い分けていたことがよくわかる。

四畳半襖の下張』という春本は大正時代にでた。いまでは永井荷風の作と目されているが、当初は金阜山人(きんぷさんじん)という古人が書いた手記を、永井荷風が紹介するかたちで世に出た。この回りくどい手順は、責任を追求されたときの逃げ道である。実際に永井荷風はわいせつな文書を製造したかどで警視庁から呼び出しをうけたが、なにも知らないと最後までしらばくれた。ただし、素人が書いたにしては文章がうますぎて、後年の文学者から荷風の書いたものだと断定されている。『私の奴隷になりなさい』のサタミシュウを知っているか? 実はあれ超有名な作家なんだぞ。何も聞かないうちから友人にそう説教されたことがあるが、現代の作家でも別名で官能小説を書くことは珍しくない筈だ。

かたむきみちおはいま一度、なんのために仮名があるのか、その意義を確認したい。慈善団体の広報でもないくせに、私はいったいだれに遠慮して、なにを心配しているのだ。自分の仮名をまるで本名のように扱い、よく思われようとして、「どこの馬の骨とも知れぬ奴」の軽々しさを封殺してはいないか。別名は自分を破壊するための武器であり、評価から逃れるための盾ではない。この文言をおでこに彫りつけるべし。

だからといって邪険に振るまうな。善人同様、悪人であることにも才能は要る。たいていの人間は悪人を気取っても、悪人にはなりきれない。特定の人物や社会の風潮にたいする罵倒をならべた文章がどこか弱々しいのは、それが偽悪だからである。

遠藤周作は、本名とおなじように別名も大切にせよと説いたが、大事にすればするほど別名で生きることも窮屈になる筈だ。家名を重んじる家にかぎって跡継ぎ息子は生まれてこない。伝統を更新しないファッションブランドには緩慢な死が待っている。名前とは人にとって一番最初に忘れられるべきことばなのだ。

名や体面をかなぐり捨てて、その時いちばん伝えたいことを素直に口にしてみろというのだ。膣口についてこれほど議論が少ないのは、みな遠慮しているからではないのか。あるいは現代の容器がすべて品評に値しないからではないのか。これがかの有名なリーマン予想である。不良生徒よ、はしたない夢の力でこの謎を打ち砕け。

 

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