読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

虫入りのコーヒーを飲んだことはあるか。私はある。

夏の夜、川べりに面したおしゃれな喫茶店へ仲間と繰り込んだときのことだ。店は満席で、ほかの客が立つのをしばらく待たなければならなかった。私たちはテラスに誰もいないのを見つけた。

日が暮れても屋外にいると汗ばむような暑さである。なるほど皆それを嫌ってクーラーの効いた部屋でコーヒーを楽しんでいるわけだ。しかし私たちも男である。すべての客よガラス越しに観るがいい、むさ苦しい男たちがじっとりした野外テラスで優雅にホットコーヒーを啜るすがたを。私たちは店員を捕まえ、その口から「テラスもご利用になれますが、」のひとことを聞き出すと、すぐに野外の席についた。

ほかの客がなぜここに座りたがらないのか分かった。夜になるとテラスに備えつけの照明がひときわ輝いて、うじゃうじゃとまわりの蚊や蛾を集めるのだ。しかしいまさら「店内で」とは言い出せず、予定どおりコーヒーを注文する。すぐに店を出たい気持ちをおさえ、供されたカップを手にすると、茶色いコーヒーのみなものうえに見たこともない透明の小バエが浮いていた。ぞっとしてティースプーンで虫を掬いあげ、ウッドデッキに捨てる。安心してふたたびカップを掴むと、すでに次の小バエがコーヒーに浸かってじたばたしている。それも今度は2匹である。私たちは「虫の1匹や2匹食べてどうなるものか」と励ましあい、虫もろともコーヒーを飲み干した。いつも吸われているのだから、こっちから一度くらい吸ってやれと息巻いていたが、自暴自棄とはこのことである。あれより苦いコーヒーを飲んだ経験はほかにない。

過去の偉人もみな蚊に苦しんできた。
蚊に苦しまなければ大した人物ではないとさえ言える。

日本人で初めてエベレストを制した冒険家・植村直己は、山に登るだけでなく、犬ぞりで南極を駆け、イカダでアマゾン川を下った。自身の冒険譚を書きつづった著書『青春を山に賭けて』 にその話がある。植村は、8本の丸太を組んでつくったイカダ「アナ・マリア」号(名の由来は、彼が恋したスペインの尼僧)に乗り、アマゾン川を60日間かけて下りきった。

もちろん平和なクルーズではない。流木にぶちあたって食器類をすべて流され、唯一のこった洗面器で身体を洗い、それをそのまま鍋として、また皿として食事に用立てた。しかし「なんといっても、恐ろしいのは夜であった。星空、月夜は恍惚とするほどきれいだったが、ひと叩きすれば二、三匹とれるほど蚊の大群には悩まされた。カヤをつっても、木のすき間のどこからともなく進入してくるのだ。耳や口の中まで入りこんでくる。」

アマゾンで生きる蚊である。日本よりも数段手ごわいやつにちがいない。植村は蚊に悩まされて不眠状態のまま舵をとったが、じきに馴れて眠れるようになった。そもそもピラニアが泳ぐ川のうえで小さなイカダに揺られながら眠ることすら常人には耐えがたいのであって、さらに蚊が飛び回る二重苦を超えて眠りにつけるとなると、これはもう凄いのである。なるほど大きいことを成し遂げようと思えば、些事にこだわるみみっちい精神を捨てねばならない。スプリングコイルの入ったマットレスでぐっすり寝ておいて、いちいち小粒のクモが出ただけで大騒ぎして飛び跳ねているような奴に、地球相手のしごとはできないのである。

蚊に刺されながら眠ることがいかに難しいものか、私も夏の野宿でよく知っている。海岸ちかくの防波堤のうえで一夜を明かした時のことだ。高校生の頃にバカな友人たちと「北にむかえば海にでる」というシンプルな発想のもと、夜通しバイクを駆って、大阪から100kmほど北上し、ある海水浴場にたどり着いた。

時刻は午前3時である。まっ暗な田舎の海岸線で、私たちはまさにほかの虫と同じように、ひかり輝くコンビニへと吸い寄せられていった。イートインスペースで休もうと思えばいくらでも休める。しかし店内のまぶしすぎる照明、えんえんと繰り返す狂気じみた店内放送、アルバイト店員の無言の圧力に屈して、外にでた。

横になって休める平らなスペースを探す。すぐそこに砂浜という至上のベッドがあるにもかかわらず、私たちが寝床に選んだのは、コンクリートの防波堤だった。歴史上の大事故の多くは睡眠不足によるヒューマンエラーが原因だと聞く。まさか、とは思うが、自分にしてひどいトンチンカンをやらかしているのだから疑いようもない。 さて私たちはカバンをまくらにして横になった。東の空はすでにほの白い。まどろんで夢の入口に立つと、あと一歩のところで耳元を飛びまわる蚊の羽音に起こされる。それに、露出した手足のいたるところが痒くてたまらず寝られたものじゃない。蚊を払い、全身を掻きむしる。朝焼けに白む砂浜を背景に、防波堤のうえで一直線に寝そべった男どもが四肢をばたつかせているさまは、遠目には神秘主義者の密儀に見えたはずだ。結局あぶはちとらず、蚊の退治もできず寝られもせず朝を迎え、ぼうっとした頭で水に浸かり、皆して暗いどんよりした顔を見合わして、互いになにを言うでもなく帰り支度を始めるのであった。

いつの時代も蚊は嫌われ者だ。平安時代の随筆家も同じく蚊を憎んだ。清少納言の『枕草子』にこんな一節がある。

  • 「ねぶたしと思ひて伏したるに、蚊のほそ声にわびしげに名のりて、顔のほどに飛びありく、羽風さえその身のほどにあるこそ、いとにくけれ」(眠たいと思って横になっているところに、蚊が細い声でわびしそうに名乗って顔の周りを飛び回るとき、羽風までもが蚊の身相応にあるのこそ、とても憎らしい。)*

憎い理由がちょっと複雑だ。「蚊の羽風が身分相応であることが憎らしい」とは一体どういうことか。小さい虫が小さい羽をせわしく振るわせて高音波で飛ぶことにイラッとするのか。たとえばカブトムシの羽音は低い。芝刈り機のような蚊の飛行にくらべると、カブトムシの飛翔には神社の釣り鐘を突いたような渋みさえある。

しかし、蚊が大型の虫のようにブーンと低音で飛ぶのは「いとにくけれ」どころか不気味で仕方がない。トランペットがチューバの音色を奏でるようなものだ。声は、声主の身分と合致してこそ心地よいものである。サイレント時代の映画俳優がトーキーを嫌ったのは自身の声がヘンであることが観客にバレるからではなかったか。『枕草子』のこの一節に下線を引いて「どういう意味か答えよ」と出題したとき、生徒の答案に「清少納言と話したこともないくせになぜ貴様に正答がわかるか」と偉そうな意見が書いてあったらどう思うか。身分不相応にイラつくのはわかるが、身分相応が憎いとは高級な問題である。女性の心の機微に通じた人なら彼女の真意も分かるだろう。古典の授業中にPSPで遊んでいて教室からつまみだされた私にはとうてい理解が及ばない。

偉人になればなるほど蚊にたいする悩み方も常人離れしている。飲み物に蚊の1匹や2匹入っているだけで騒いでいては、5大陸の最高峰を制することはできない。寝ているところを蚊に起こされても、その羽音にわひしげな名乗りを聞くことなく、ぴしゃりと叩きつけてしまうような輩は、野暮天のとんちきというわけだ。いっそ我が身を蚊に食わせて堂々としているぐらいの気概が欲しい。蚊の採取には人囮法という読んで字のごとく、想像もしたくないような方法がある。このおとり役をすすんで引き受けるぐらいのガッツがあれば、エベレストの頂を踏み、適当に書いたものが1000年残る文才を得たも同然なのである。

*古典に親しむ〜枕草子

広告を非表示にする