ルーブル

さいきん買った本を紹介する。

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中島らも『今夜、すべてのバーで』講談社文庫

らもファンを自称しておいて、本作を読まないでは嘘になる。かならず代表作として挙がる作品だからだ。いままで読まなかった理由は2つある。1つは文庫本の100円コーナーになかったから。敬愛する作家の作品を読むのに100円単位の金を惜しむとはなんとも軽薄な話である。それより2つ目の理由のほうが深刻なのだ。それは酒じたい、酒を飲む人間への嫌悪である。

酔っ払っている連中はみなバカだと思っていた。この憎悪には、いまわしき飲酒体験が関係している。高校の卒業旅行で訪れた宮古島にて、地元の居酒屋で出されたチューハイを飲んだところ、具合が悪くなった。1人の友人は1杯飲まないところでトイレに駆け込んだが、私は表面張力のおかげでなんとか吹きこぼさずにすんだ。強い地酒かなにか入っていたのか、口当たりは良いくせに、ひどく酔う。体育祭の打ち上げでときおり口にする缶チューハイとはわけが違ったのである。不快感を打ち消すために、当時流行していた『ホームレス中学生』をホテルの部屋で夜通し読んだことを覚えている。それから酒にまつわる事柄が苦手になってしまった。本も例外ではなく、アルコールをとりあげた書物へは近づきもしなかった。それが去年の暮れに晩酌の楽しみを知った。かつて教師が「毎日飲まないでほかになにをするのだ」と言った意味がよくわかる。酔うことは夜を明かすための準備だ。しらふで明日を迎えるには不安すぎる。ちなみに中島らもは、山田風太郎甲賀忍法帖を中高生時代に18回読んだそうである。  

 

吉行淳之介『悪女という種族』ハルキ文庫
      
『恋愛論』角川文庫

吉行淳之介は国語便覧で姿を知っていた。爬虫類のような目をしていて、中学生当時おそろしく思っていた。紹介をみると、性を探求する文学とあるから、エロいこと考え極めるとこんな面貌に至るのかと半分あこがれの眼差しで眺めていた。

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今回はじめて著作を手にしたきっかけは、丸谷才一の『文学のレッスン』(新潮文庫)で、エッセイの名手と謳われていたからだ。

『文学のレッスン』ではエッセイの極意が説かれる。ほんとうは誰にも教えたくないのだが、話の都合上、取り上げないわけにはいかなくなった。丸谷才一がいう面白いエッセイの条件とは、書き手がよく本を読んでおり、かつ文章がうまいことである。今更考えるまでもない基本条件なので深入りしないが、彼が紹介する野坂昭如の説こそが至宝なのである。ゴシップ・雑学・冗談、これが野坂昭如の唱えるエッセイの3要件だ。そう言われてから、自分がこれまでどのようなエッセイを好んで読んできたか振り返ると、これらの条件が満たされていることが判る。ここでいうゴシップとは、芸能人の色恋沙汰ではなくて、自身の体験や友人知人の話、ひろい意味でのうわさ話のことだと考ればよい。要は、エッセイの中にエピソードを挿入することを指している。丸谷才一は自身のエッセイの全てがこれらの要素に還元されるとまで言う。

吉行淳之介は、内田百閒との比較に出される。丸谷才一によれば、吉行淳之介のエッセイは先ほどの3要件を満たして余りある内容がある。しかし内田百閒のものは内容らしい内容がなく、なぜ面白いのか分からないと言う。たしかに『百鬼園随筆』を読み返してみると、電車に乗って、電車から降りて、改札を抜けて、あくびをしたら涙が出た、みたいな話ばかりである。凡人の日記と大差ないが、その表現方法がきわめて洗練されているから面白い。主張の内容ではなく、文章じたいを鑑賞する趣味だ。そう考えると、日常のなにげない一幕を切り取る雰囲気系のエッセイが、実はたいへん難しいものであるとわかる。どちらが上ということはないが、手元にネタがあれば、誰が書いてもそれなりに面白くなる。しかし、なにもないところから書き味だけで作品を成立させるのは至難の業なのだ。吉行淳之介はそんな内田百閒のエッセイに憧れていたという。この話をきいて吉行淳之介を読みたくなり、図書館で文学全集をひもといた。

  • 「いいかい君、屑なら屑に徹することだ。コンクリートの地面に叩きつけられた背中の青い魚の腹が破れてだな、臓物がはみ出している。その上に夏の太陽が赫っと照りつけている。はらわたの薄い膜が脂でぬるぬるして、水たまりに浮いた機械油が虹の色に光るように、太陽の光をはね返している。そういう強請をしてもらいたいな」『不意の出来事』

この一文を読んでガツンとやられてしまったのである。

 

  

澁澤龍彦『夢の宇宙誌』河出文庫
     
『妖人奇人館』河出文庫

エピグラフに「わが魔道の先達、稲垣足穂氏に捧ぐ」とある。私も許されるなら魔道に入りたい。世の中で気持ち悪いとか理解できないと退けられがちな事項について丹念にまとめた本だ。私はつねづね人間の暗部こそ、みせかけのつまらない良識をひっくり返す唯一の可能性を秘めたものだと考えている。この世でもっとも要らないものは、宗教勧誘のチラシでもなければ、余ったイヤフォンカバーでもない。常識人の結論である。

 

 

・富永惣一, 吉川逸治監修
『国際版 世界の美術館1 ルーブル美術館
『国際版 世界の美術館2 大英博物館
『国際版 世界の美術館3 ヴァティカン美術館』
『国際版 世界の美術館6 東京国立博物館講談社

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ブックオフで108円で投げ売りされていた。発行が1973年と古く、歳相応の痛みがある。シリーズ10冊の中から興味あるものだけを選り抜いた。なんの役にも立たない流行の新書がすぐ横の棚で3倍の値段がつけられているのをみると、本の価値とはなにか分からなくなってくる。大判の図集で、4冊で5kgを越す。安価に目がくらんで飛びついたものの、歩いて持って帰る計算のほうには頭が回らず、大変な思いをした。帰り道にちがう店舗があれば、2冊ほど売り飛ばしていたところである。

佐々木健一『美学への招待』(中公新書)を読んでから、現代アート呼ばれる一群の芸術作品への分からなさが、なぜ分からないか分かるようになり、作品鑑賞がずっと面白くなった。近代以降、芸術は手工芸的な技術の驚異から、観念の遊戯にかわった。芸術のフィールドは、見聞きするところから、考えるところへ移ったのだ。現代的なアートが一見してなにか把握できるのに、それがなにを表しているのかさっぱり分からないのは、既成の芸術の意味に挑戦しているからである。古い例の焼き直しで、「あ、これ美術の教科書で見たことある」と思われたら敗北なのだ。つまり理解不能上等なのである。一瞬の分からなさも提出できないような作品は芸術ではない。

 

戸田山和久『恐怖の哲学――ホラーで人間を読む』NHK出版新書

大学に入ってはじめに配られたのが著者の『論文の教室――レポートから卒論まで』(NHKブックス)であった。著者は、思わせぶりに使われる「」を嫌う。単語を「」で囲むことで、さも「意味ありげ」に見せる演出を戒めるのだ。彼女は「美人」である、と書いたときのように皮肉の意味を意図せず持つことにもなる。適切なタイミング以外で「」を使用しないこと、私はいまでもこのアドバイスを守っている。

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同じ著者の『論理学をつくる』を読んで腐りきった文系脳に活を入れようと思ったが、叶わなかった。非凡なことを誰にでもわかりやすく伝えることを頭のよさというなら、この人ほど頭のいい人はいないと思う。これまで読んできた著作すべて良い刺激になったから、今回も外れないだろうと踏んで『恐怖の哲学』である。笑いは突き詰めれば恐怖に、恐怖を突き詰めれば笑いになると聞く。本のなかで紹介されている桂枝雀の怪談落語などまさにその例だ。風呂ん中で第1章を読むところだが、この本は表題に反して笑いとは何かを考える際にかなり有効な手立てとなる予感がしている。

  

そのほかにもあります。
丸谷才一『絵具屋の女房』文春文庫
ボードレールボードレール詩集』新潮文庫
遠藤周作『周作塾――読んでもタメにならないエッセイ』講談社文庫
(※タメになります)

 

以上。

 

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