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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

眼鏡

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左目にカナブンが入って視力が落ちたのは高校生のときだった。学校からの帰路、自転車で飛ばす坂道の途中で、バチンと音がした。またかと私は思った。ちょうどその頃、原付バイクで走るさなか、顔に鳥のフンを受けたことがある。そのときの音に似ていたのだ。しかし今度のは硬すぎた。猛烈に痛む顔を手でおさえながら、犯人は誰かと残された右目であたりを探すと、羽を広げた緑色のカナブンが、ぶーんとのん気に空を切っていた。

異変は翌朝である。ゴーグルなしで見た水中のように視界が揺らいでいる。右目ではパリパリに焼けた朝のトーストも、左目にはふやけたはんぺんである。あらゆるものの輪郭線が崩れて、内容物がどろどろと溶け出している。左目を確認すると、充血はない代わりに白目が黄色く濁っていて、その上にぶ厚い涙が張っていた。眼球自体にうっすら腫れているような圧迫感がある。ふつうなら学校を休んで眼科に飛び込むところ、精力みなぎる体育会系部員だった私は、身体の不調をすべて根性で治せると本気で信じており、病院に行かず、3歳児のぬり絵みたいな世界で1日を過ごした。目は翌日に治った。根性のおかげである。しかし視力は二度と戻らなかった。

片目が悪くなると、それにつられてもう一方の視力も落ちると言われるが、そんなことはなかった。あれから10年間ずっとちぐはぐな視力で生活している。長時間の読書で片頭痛をきたし、3D映画では映像がずれて二重に見えるためすぐに酔う。辛いから片目ずつ交互に分担して観るが、もちろん立体効果は得られない(なんのための3Dか)。免許更新のたびに課される簡単な視力検査も毎回パスできるかどうか不安である。折にふれて眼鏡を作ろう作ろうとは思いながら、ずるずると先延ばしにしている。

目が良いことも良いことばかりではない。物事がはっきり見え過ぎることの悲痛は、たとえば小林秀雄の『徒然草』の一節、

  • 兼好は、徒然なる儘に、徒然草を書いたのであつて、徒然わぶるまゝに書いたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、眼が冴えてかへつて、いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さを、「怪しうこそ物狂ほしけれ」と言つたのである。(下線筆者)

を引かずとも、もっと卑近な例で、ことわざの「夜目遠目笠の内」を思い起こせば済むはなしである。きれいなものをよりきれいに見るために、あるいは、ちょっとまずいもののまずさに気付かないでいるためには目の悪さが必要なのである。印象主義の大家クロード・モネは後年、白内障を患った。集大成『睡蓮』は左目を失明した状態で、わずかに残された右目の視力を頼って描き上げられたものである。目が良ければもっと美しい絵になったか。私はそうは思わない。モネは最期に、自分が描いてきた絵と同じような風景を絵の具を使わずに視たのだと思う。

これはカナブンの見せる美しい世界である。そうでも思わぬ限り、この不運をどうして受け入れられようか。 


参考
小林秀雄(1975)『筑摩現代文学体系43 小林秀雄集』筑摩書房.
湯原公浩編(2007)『別冊太陽 モネ――光と色の革命児』平凡社.

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