テレビ朝日のバラエティ番組『ブラマヨとゆかいな仲間たち アツアツっ!』にゲスト出演した小藪一豊さんが、「こんなヤツ腹立つ?腹立たない?」をテーマにブラマヨの2人とトークしました(7月4日放送)。そのなかで小藪さんは、「男を顔で選ぶ女」に腹を立てながら、次のように言ったのです。


「心を見抜く力を若い時から養わずに、やれ金髪だ、やれ靴とんがってる、やれ黒のスーツだ、みたいなことで(男を)追っかけているから、男の心を見る練習をしてないのよ」

(小杉さんがそれを受けて)
「でも男の心を見る訓練って難しくないですか?」

「簡単や。中1からずっとしたらええねん。中1からずっと男前ふぁー、あの人足速いふぁー(と追いかけていると)、30まで来て、いざ結婚となった瞬間、はい、結婚相手やから相手の心を見てください、となるわけですよね、人の心を見るのが白帯のやつが急に見だしたって、そら変なやつ選んでまうねん。まず顔面よりも中身やから」


すげーいいこと言うなぁ、と思いました。

もちろん、「男を顔で選ぶ女」とは逆に「女を顔で選ぶ男」が議題に挙がらないのは、暗に社会の男女関係が対称的でないことを示しています。男は、女を見た目で選んで当たり前、少なくとも女性をその容姿で選んでも非難されないという不文律がすけて見えます。

小籔さんの説教は女性に向けられていますが、この話を聞いて耳が痛いのは、じつは男性のほうではないでしょうか。おそらく女性は、ひとの見た目と中身の評価について、男性よりも成熟した考えを持っています。

なぜなら女性は、幼い頃より見た目のよしあしでズバッと評価が決まるような、シビアな環境に身を置くからです。容姿によって扱いに差が生じる場面を見たり、まさに自分が待遇の差を経験したりする機会が多いぶん、男にくらべて早々に「人は心である」という考えに至りやすいと思います。

せっかく女性が心を見る訓練を積んでいても、肝心の男性がいつまでも肌の上の美しさ(Beauty is only skin deep.)しか見ないでいると、ペアは成立しません。残念ながら男はしばしば、女性にそんな能力があることすら見抜けないものです。

2008年、秋葉原で通行人17人が殺傷される事件が起こりました。犯人の加藤智大は、犯行に及ぶずっと前から、友人や同僚、ネット掲示板に「おれは顔が悪いからモテない」と自嘲して語っていたといいます(『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』中島岳志。彼はモテないことをネタにして、掲示板にスレッドを乱立していました。 友人が「そんなに悲観することない」となぐさめても、くりかえし自分の非モテぶりを嘆いてみせたといいます。

非モテがそのまま事件の引き金となったわけではありません。しかし、彼がモテないことに苦しみ、苦しみの原因を自身の容姿に求めて、将来に絶望していたことは、事件を構成する事実のひとつです。

彼の過ちは、彼が異性をみる眼差しでもって自分のすがたを逆照射した点にあります。つまり、自分が世の中の女性を判断するのと同じやり方で、自分を判断したのです。彼は、この広い社会のなかで、相手の心を見る力をもった女性がいることに考えが及びませんでした。その想像力は、「人を殺してしまうと、今以上にモテなくなる」と思うことすらできないほど偏狭なものです。

彼は自分の非モテをひたすら容姿のせいにしました。

クジャクは、選ばれる性である雄が進化の過程で美しい尾羽を有することができた。選ぶジェンダーと選ばれるジェンダー、選好の主体が力を、客体が美しさを獲得していく。となると、人間においては、基本的には女性が美を進化させていくことになる。『化粧する脳』茂木健一郎, 73.

いつの時代にも、選ぶ性には力があります。狩猟採集で生活するとき、それは単純な腕力、精力でした。身分制の社会では、生まれ、血筋が力になりました。私たちは農耕を開始し、王政を倒して、資本主義社会に生きています。ここでの勝負は、どれだけ金を稼ぐ力があるかで決まります。隠れていた最大のテーマ「男を金で選ぶ女」の登場です。

男は女を美で選び、女は男を金で選ぶ。これが、生物学的な視点からみた、男女間の対称的な関係です。相手を顔や仕事で選別することがおおっぴらに非難されないのは、道徳的な退廃ではなく、合理的な理由によるものです。番組で「男を顔で選ぶ女」がはげしく糾弾されたのは、彼女が男性の役割をむやみに侵犯したからです。ちなみに、女性は男性を顔で選ぶことができますが、男性は女性を金で選ぶことはできません。この不等式で、不利な側にあることが、男性にとっては不愉快なのです。

加藤智大は、自動車・住宅部品メーカーの工場などで派遣社員として働きました。どの仕事も長続きせず、転職を繰り返します。その収入やキャリアパスは、ほかの非正規雇用で働く男性と同じように、選ぶ性としては、たいへん非力なものでした。彼は、選ばれるしかなかったのです。しかし、彼は自分の女性観に邪魔されて、選択される可能性を鏡の中の男に見い出すことができませんでした。

「男性の女性化」をよく耳にします。男性ホルモンや精子の減少を測定したり、性染色体の劣化が確認されたりすれば、男性身体の「女性化」が進んでいると言えるでしょう。こうした肉体的な変化ではなく、社会的な性のありようについては、何が言えるでしょうか。

美人の量は変わらないのに、低収入の男性労働者が増えていく。そこで選ぶ性は選ばれる性となり、同時に選ばれない性になっていく。選択の主体性が根拠を失っていく、そんな過程を「女性化」と言いたいと思います。あの日、歩行者天国にむけて自動車を走らせた25歳の若者は、はたして男だったでしょうか?