抜くのって気持ちいい

どちらの抜きの話でもいいのですが、今回は本について書きます。

前に、「本を読んでいて気になった箇所は片っ端からEvernoteにぶち込むようになった」と書きました。実は記事を書いた時点では何もぶち込んでおらず、いわば所信表明演説だったわけでありますが、あれから一週間、ぶち込みだすと止まらなくなって、毎日1万字ほど書き写すようになりました。どうして今までやってこなかったんだろうと悔やむぐらい、これが楽しい。はじめは自分のブログに気の利いた文章を引っ張ってこられるようにメモし始めたのですが、いまは目的が入れ違って、ノートに書き写したいがために本を読んでいる状態です。引用する気はどこかへ失せ、毎日少しずつ自分のデータフォルダが充実していく、検索用のタグが増えていく、その様子をみることが嬉しくてたまりません。

iPhoneから音声入力すればどんな長文も平気です。データはすいすい溜まっていきます。しかし、それらの素材をつかって次に何をするのか、という一歩がおそるべき難所であることを痛感しました。はじめは書籍のなかからおもしろい情報を集めることだけで、あたかも自分が賢い人間になったかのように錯覚していましたが、いざ集まった文字列からネタやアイディアを引き出そうとすると、これが全くうまくいかない。それもそのはず、「知ること」と「考えること」は同じではないからです。ここで孔子のカードを切ります。

「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」

(真理へと到達する道は)学んでも、考えなければ見えない。また考えても、学ばなければ危うい。知識だけがたくさんあってもダメ、だからといって自分の頭で考えるだけでもダメだということです。「知ること」と「考えること」の回転がそろって初めて、私たちは目的地へと前進することができます。

何万字と溜めたデータを前に「いい考えよ、降ってこい」と待ち続けること数日、ようやく知ることが考えることではないと気付きました。啓蒙書のほとんどは、集めてきた情報からいかにして価値あるものを生産するのか、という技法を説くのに苦心します。そして、たいていが「寝かせておけ」「無意識にまかせろ」といった投げやりのアドバイスです。おそらくこのプロセスは、情報収集と知的生産のプロをもってしても、簡単にはつかめないのでしょう。とにかく自分でやってみろとしか言いようがないのです。

ユニークな発想は、普通からの飛躍です。独創的でありたいと願う前に、そもそも私たちは、蹴飛ばすべき地面たる「普通」を収集しているでしょうか。調べれば何でも知ることができる(と信じている)ので、考えることを偏重するような向きがあると思います。脳科学がポピュラー・サイエンスとして流行するのも、脳トレがブームになるのも、人間の思惟する力への賛美でしょう。孔子に言わせれば、それは片方の車輪を動かしているに過ぎません。その場でぐるぐると回転するのでは教習所を出ることはできないのです。

以前から、基礎もなく「考えること」ばかりに重心を置いてきましたが、抜き書きをするようになって、ようやくまともに道を進める準備が整ったという感じがします。有名な『思考の整理学』(外山滋比古)を読んで、なんでこんなものが売れてるんだ? と不思議でしたが、今になってやっと内容に共感を覚えるようになりました。たとえば次の箇所。

「おもしろいと思って注意して集めた知識、考えがいくつかあるとする。これをそのままノートに眠らせておくならば、いくら多くのことを知っていても、その人はただの物知りでしかない。"知のエディターシップ"、言いかえると、頭の中のカクテルを作るには、自分自身がどれくらい独創的であるかはさして問題ではない。もっている知識をいかなる組み合わせで、どういう順序に並べるかが緊要事となるのである。」

LEGOブロックと同じですね。まずは必要なピース集めから。

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