おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

ある名文家の著作と日本語の作文技術

先週土曜の天声人語は次の一文で始まった。

「敬愛する他紙の名文家が、コラムを書くときは『第一感』に従うなと著作で言っていた。」その名文家とはだれだ。その著作とは一体なんだ。記事は以降話題を転じてもとに戻らず、結局読者にわずかの手がかりも与えぬまま終わりまで読ませてしまう。冒頭で提出された謎が気になるあまり、どんな内容であったか今ではまるで憶えていない。同紙のジャーナリスト・本多勝一が書いた『日本語の作文技術』を買って大失敗した。今度こそという希望と、次にまたつまらないものを掴まされたら二度と新聞屋の文章指南書なんか読んでやるかという絶交の契約とを賭けて、なんとしても「名文家の著作」を手に入れたいのである。

本の捜索隊を派遣しているあいだに、私たちは『日本語の作文技術』を買って失敗したゆえんを振り返ることにしよう。「第一章から第四章まで読めば、それだけで確実に、文章はよくなる。この本はそういうスゴイ本なのだ。」フランス文学者・多田道太郎は巻末でそう解説する。文庫本うら表紙の紹介文にも同じ箇所が引用してある。書店でこの本を手にとり思った。なに、四章読むだけで。たしかにそりゃあ、スゴイ本だ。表をみれば、「今でしょ!」でおなじみの林修先生が「必携の一冊」と絶賛する帯。いつ買うの? 帯の上から林先生が応えを求めている。僕はなにも言わずに、おちょぼ口だけまねて、そっと本を返した。二日後、ブックオフの百円棚で「今でしょ」を叫ぶ。

失敗したと思ったのは、第一章で次の図を見たからだ。

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本書の残り三百ぺージはすべて、中央線より左の「実用的」な文章のために捧げられている。僕はどちらかと言うと、右方面に関する技術が知りたいんだけど――皆さんはどうですか。僕がブログを書くときに使いたい表現の要諦はほとんど右側に眠っている。この人みたいに書けたらなあ、とうらやむ作家の名はすぐに二三挙がるが、記者、評論家、学者となると、思い浮かべるのも大変だ。

A.白い厚手の横線の引かれた紙
B.横線の引かれた白い厚手の紙

どちらが正解か。みたいなゲームを次章と、つづく第三章にかけて延々とやらされて、目標の四章に着く前に読むのをやめてしまった。人様に読まれることを意識して何かを書いてきた人(つまりブログやってる人)なら、自分の実体験からそんな事とっくに注意してやってるよ、と言いたくなる基本事項の羅列である。新たな知見を得るというよりは、ひたすら確認作業をくり返すことになる。あえて偉そうな口ぶりをして言っておきたい。いっぱしの大人がこんなものを読んでアヘーと感心しているようじゃ、危ない。Amazonレビューに、「メール・ブログ・SNSと文章を書かざるをえない昨今では、さらに重要性がアップしたのではないだろうか」と言う人がいる。違う。公私問わず、莫大な量の文章をやりとりする時代に生きて自然に備わる程度の文章技術しか説かれていないからこそ、もう用済みなのである。フォロー:全国の中学生男子諸君、校内の女子から「○○くんってほんとレトリシャン。わたしもそのテクニックで描写されてみたいわ」なんて噂されたいなら、白い厚手の横線の引かれた紙に文字を書くまえにこの本を読みたまえ。

「悪い軍隊なんてものはない。あるのは悪い指揮官だけだ」*1
派遣した捜索隊が、行方不明者六名、負傷者十八名を出し、半壊して還ってきた。彼らが手にした情報によると、「他紙」とは読売新聞のこと、「名文家」は一面コラムを担当する竹内政明、その「著作」とは『「編集手帳」の文章術』で間違いないようだ。さっそく買って読んでみる。

天声人語が引用した「第一感に従うなかれ」とは棋士の忠言、まず初めに頭に浮かんだ手筋など当然相手に読まれているのだから、勝つためには第一感を捨てねばならぬ、というもの。「プロのコラム書きも、第一感を捨てるのが普通」と竹内は言う。それは全国紙の一面コラムニストである以上、だれもが思いつくような陳腐な文面でものを言わないプライドである。なるほど、凄い。捨てるとほかに頼るものが何もないから、第一感を大事に大事に育てていく私たちの書き方とは、覚悟の量が違うわけだ。「第一感を惜しげもなく捨てるためには、第二感、第三感を取り出せる引き出しを持っていなければなりません。」その引き出しはどうやって作るのだろう。答えは、この本の白眉である第六章、「引用の手品師と呼ばれて」にある。

引用とは、教養である。『大人のための読書の全技術』で齋藤孝は述べる。彼は毎週、大学の教え子にエッセイの提出を課す。その文中にはどこか必ず他の著作からの引用がなければならない。引用文を絡めることで、意見は説得力を備え、読みものとしておもしろくなる。それはわかる。でも、どうすれば旧約聖書からダレノガレ明美のスタイルブックに至るまで、古今東西のあらゆる書物から自由自在に文章を引き出せるようになるのだろう。博覧強記と尊ばれる人達のように、生まれついて記憶力の秀でたるをもって引用者の資格とするのだろうか。だとしたら、もう来世に賭けるしかない。ロープに首をかけたとき、第六章の声がした。(バカだなあ君は。逆だよ。なにも憶えなくてもいいように、引用ノートをつけるんじゃないか。)

宗教がエクスタシー(忘我)の技術であるように、引用もまた忘却の技術である。私がいま記憶のできない身体を呪って、つぎの輪廻の回転に生を預けたように、引用文の運命もまた外部の存在に委ねてやるのだ。祈りの方法を見ていこう。

①読書
著者は書店に入るまえに数字を決める。八なら八で本棚の右から八番目の本を抜きとり、今度はそこから数えて八番目、という風にどんどん内容無視で買っていく。新聞に載るどんな話題にも対応が効くように、関心領域をこじ開けるのだ。縦横無尽の引用術、華麗にみえて水面下に血みどろの努力あり。引用とは教養との言、ここに由縁を見つけたり。
②コピー
これは使える、と思えば、とにかくコピー機にかける。
③ノート
ちょっとしたフレーズは手書きで残す。
④バインダー
コピーしたものをとじる。その数三百を超すという。
⑤カード
どこに何を記録したか把握するために、テーマ別にバインダーの番号を書き残す。データベースに対する検索システム。

お気づきの通り、②③④⑤すべて今ではEvernoteで足る。データの出し入れも速ければ、一語単位で検索もかけられる。押し入れに三百冊のバインダーを保管する手間もなければ、それ以上の情報を便所のなかに持ち込んで使える。こんな文明の利器があって、アナログ世代の引用者に遅れをとってどうするのだ。彼が「引用の手品師」と呼ばれるなら、わたし達は魔術師と呼ばれて然るべきところ、実際は詐欺師にもなれないでいる。手品にタネがあるように、引用にも汗くさい手順がある。才能は、それをいかに隠すかという点にのみ表れる。私たちは奇跡を信じる良き観客、愚かな聴衆でありすぎた。

「うまい引用」とはなにか。著者によれば、「書き手がどうしてその引用を思いついたのか、読者にとって謎であること」だという。うまいマジックとは何かを考えるとき、行き着く先もほとんど同じであるように思う。書き手になるとは騙す側に回るということだ。つまらないマジシャンは、ほんとうにタネも仕掛けもないことをやって拍手を浴びようとする。うす汚れた小屋の興行でも、見せ物である以上は工夫のひとつくらい用意したい。そう思って私は、手当たり次第なんでもEvernoteにぶち込むようになりました。

*1 『機動警察パトレイバー2 the Movie』より。

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