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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

速読本とはギャグである

速読本あさりが止まらない。

「これであなたも1冊10分で読めるようになる」なんて、眉唾ものの文句でせまる速読指南書を見つけては読み、読んではノンと首を振りつづけ、未だこれと決めて惚れぬく覚悟ができる本に当たらない。そんな失意のなか確かな手ごたえで掴んだ、速読界の共通了解がある。一つは、制限時間を設けること。もう一つは、読む意味と目的をちゃんと定めること。たいていの速読本がまず、これらの基本的な態度を修得せよと説く。投入する時間をコストと考えて、わずかな出費で最大限のリターンを得るように読めと教える。

この語調だと、いまにも「そんなの嘘だ。オレは信じねえ。本を読むことをまるで株式投資するみたいに言いやがって。なにがコストだ、回収だ。てめえのゴミより使えぬ紙束には1分1秒、1円1銭すら出すのが惜しまれる」とやり返しそうな気配だが、実はけっこう気に入っていて、家に暖炉があればマントルピースの上に家族写真と一緒に並べてもいいとさえ思っている。だってふだん、あと30分しか使えないぞとか、生産性を高める仕事術のノウハウを学びとってやる、なんて明晰な目的意識をもち、徹底した現世利益追求型の態度でもって本に臨むことなんてない。むしろ時間つぶしに、すぐに役立たなくともその一瞬だけ気持ちよければいいのだ、なんてセツナ享楽主義を通してきた。まるきり性格のちがう交際のしかたが衝突して、はじめて自らが頼む方法が唯一絶対ではないと分かる。洗面台の鏡に映るじぶんの顔が、モデルのように精悍に、アイドルのように可憐に見えたとしても、外で他人と相対すれば、「大衆」と一括される水準の、つまらない容姿であることがいやでも自覚されるように、他種の読書法に触れると、じぶんが信奉してきた方法がなんら特別特殊なものでなく、その黄金色はこちらの光の当て方が見せる錯覚に過ぎなかったと知れる。本の読み方には十色の技法があることに思い至るだけで、これまでの傲岸な態度からは大躍進を遂げたと喜ぶべきである。

書店と図書館を往復し、読書術コーナーを端から端まで横断した末、速読の奥義を得た。それは速読本を買わないことである。「もしある人があなたに訊ねて、存在を問うならば、非存在をもって答える。もしも非存在を問わば、存在をもって答えよ。もしも常人を問うならば、賢者の話をもって答えよと云々」とは禅問答の教訓である*1。速読のために速読本を買ってはならないと言うのは、あらゆる逆説に似て思想めいてはいるが、その出発点は単純にも金がもったいないという貧乏根性にある。速読術の開祖はみな口を揃えて、「環境に負荷をかけよ」と言う。たとえばそれは冒頭に示した共通了解その一、読書に制限時間を設けるべし、の項によく表れている。一度本を買ってしまえば、残された余命こそが制限時間となる。ならば、返却期限、店の閉店時間あるいは立ち読みのし過ぎで痛む良心の耐えるまでをもって制限とする方が、現実的な緊張感があってよい。ある著者は、最小のコストで最大のリターンを得るべしと説く。これにまじめに従えば、立ち読みこそ最善手となる。支払う代金なし、かける時間わずか、盗みとるのは本の急所と、これ以上ない投資回収率である。速読本は自らを買うなと言うばかりか、いかに買わずに内容を素早く読み取るのかという技法までその場で教えてくれる。これは体を張ったギャグである。偉大なる喜劇作家・井上ひさしは「ギャグは逆」と言った。「表なら裏、上とくれば下、右と声が掛かれば左、前といわれりゃ後、黒なら白、肯なら否、正なら邪、善なら悪、山なら川と、逆へ逆へとはなしをねじ曲げる」ことで、事態はおもしろみを増していく*2。それでいけば、笑えるかどうかは別として、禅問答も速読本も間違いなくギャグである。

 

*1 ロラン・バルト『表徴の帝国』ちくま学芸文庫, p.116.
*2 井上ひさし『パロディ志願』中公文庫, p.20.

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