ブログ高原を南下せよ

冗談はさておき、『芥川・太宰に学ぶ 心をつかむ文章講座』を書店で立ち読みしてからというもの、肝心の文章力には一ミリたりとも進歩の兆しは見えないが、芥川龍之介をどう読めばいいかという作品の読み方については、天啓を得たのである。

話は早速わき道にそれる。この本は、両者に影響を受けたと公言する又吉直樹の人気に便乗した、こすからい粗製乱造の商品群の一角であり、そんなものの例にもれず、値段に見合う内容を伴っていない。どうせ同じだけ払うなら、ちくま学芸文庫からでた『高校生のための文章読本』を手にしたほうがいい。

この本の面白いこと、時間のつぶせること、なるほどなと膝を打つこと、ちょっとそこのお兄さんと妙齢の貴婦人から声をかけられること、ことば巧みに誘われて家にあがること、いよいよムード高まって婦人のからだに触れようとした時、となりの部屋から夫が怒鳴り込んでくること、これはすべて仕組まれた美人局だと知ること、金を出さないと痛い目にあうぞと凄みを利かせる男の鼻めがけて渾身のげんこつをお見舞いすること、逆上した男が懐からピストルを取りだし、引き金を引くこと、銃弾を胸に受けること、薄れゆく意識のなか、薄れゆく意識のなか、薄れゆく意識、あれ、一向に薄れゆくことのない、はっきりとした意識のなかで、上着にあいた穴にそっと手をやると、先まで読んでいたぶ厚い文庫本が身代わりになってくれていること、もちろんその本とは言うまでもなく『高校生のための文章読本』であること、あらゆる局面でこの本が勝っている。ちょっとまじめに言うと、銃で撃たれる程ではなくとも、ドッヂボールを抱き止めた時ぐらいに響くものがある。たとえば次の箇所、

文章を書くことで私たちは「望ましい自分」を実現できる。つまり文章上の「自分」を創ることができるのである。外見上はおっちょこちょいで軽薄な私が、落ち着き払ったロマンチストになりすますことも、逆に口数少ない私が舌鋒するどい批評家に変貌することもできるのだ。考えてみたら、こんな愉快なことがあるだろうか。

文章読本の出来を評価するとき、自分のなかで書く勇気がどれだけ奮い立ったかを指標にするのが一便法である。それでいくと、この本はシベリア遠征に向かう一個連隊を鼓舞して余りある喇叭の掛け声となる。

「うのすけ二等兵、状況を報告せよ」
「現在わが小隊はブログ高原を南下中であります」
「バカ者、そんなことは分かっている。我々はいま冒頭に提出した芥川の話題を回収するか、これを迂回し、脱線したままで終わりの一行に向かうか、この選択を迫られておるわけだ。なにか打開策はあるか」
「このまま軍行を続ければ、兵力に甚大な被害を受けます。兵の中には、靴ずれ、垢切れ、ネタ切れを訴えるもの多数。季節はずれの五月病が蔓延し、次の一文字すら書くのが億劫だと言うもの大多数。無理に南下すれば壊滅的打撃を被ることはもはや免れません」
「だからといって、こんな所でいたずらに時間を空費しても何も始まらんじゃないか」
「問題は始まる始まらないでなく、どう終わるかであります」
「まさか我々の会話で記事を閉じるつもりではないだろうな。そうはさせない。安い推理小説じゃあるまいし、そんな簡単に登場人物が消されてたまるか。おれは延々としゃべり続けてやるぞ」
「隊長」
「なんだうるさい。こっちは戦争をしておるのだ」
「隊長、空を見てください。ミサイルがすぐそこまで飛んできています。もう終わりだ」
「ちくしょう、やりやがったな。こんな横暴が許されると思うなよ。何がミサイルだ。都合が悪くなったら、すぐに切り捨てやがって。我々は字数稼ぎにやってきたエクスペンダブルズではないぞ。ただで死んでたまるか。お前の恥ずかしいことを叫んでやる。お前は中学に上がってもずっと母親のことをママと――」

 

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『芥川・太宰に学ぶ~』のなかで、題材にあがる芥川の小説が、やたら「超絶技巧」と賞されていて、この四文字熟語を墓に刻みつけたいほど愛しているわたしは、すぐさま家に帰って文学集を開き、その技どれほどのものかとミーハー体で読み耽った。恥ずかしながら、高校に入るまで母のことをずっとママと――これじゃない。恥ずかしながら、今まで芥川龍之介の鼻を、河童を、蜘蛛の糸を、技術という観点から眺めたことがなかった。ただ冴えない読者として、もっと言えば、日本文学史のなかで重宝されているらしい作家、若くして自殺した頭のおかしい人のやけに深遠らしい話として、不良生徒の授業態度でしか読んでこなかった。凄すぎてすぶの素人には凄さが分からないアレである。ピカソをみて、へっ、こんなのオレでも描けらぁとうそぶく意気である。本書は、芥川龍之介がどういう修辞技法を用い、どう話を構成して、いかに小説を効果的に演出しているのかをあばく創作のメイキングムービーである。書く力を上げるというより、作品を読む力を高める鑑賞の入門書なのである。技巧の一点に集中して作品を読み直すと、これがまじで凄いわけだ。たとえば、『あばばばば』(表題もイカす!)の最後の一文、

しかし娘じみた細君の代わりに図々しい母を見出したのは、…保吉は歩みつづけたまま、茫然と家々の空を見上げた。空には南風の渡る中に円い春の月が一つ、白じろとかすかにかかつている…

完。えー! 何ですかその終わり方! 構造的にいえば、A is B で終わるのがあまりにフツーだから、Bをぶっこ抜いて、A is, (C), とやり、読者がそれぞれお手製のBなるものを持ってきて物語にピリオドを打つ仕様。効果でいえば、時間と場所のことなる二つのイメージを同時に読み手の心理的情景のなかに立ち上げる力業。いくら何でも凝り過ぎだろ! つーか、どんな頭してんだよ! 文章読んでひっさびさに興奮したわ。百年前にこんなことしてる奴がいたんだ。じゃあ俺らの書いてるこれって何なんだよ。原始人の「ウヒ、アハ、バラベンボ」とやってることに大差ねえんじゃねえカンガオリホロ、アリハラゲ、…うのすけ二等兵は歩みつづけたまま、茫然と焼け野原の空を見上げた。空には爆風の渡った後に円い秋の月が一つ、白じろとかすかにかかつている。…

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