うわっ…拙者の口臭、臭すぎ…?

暗殺の香り

天井に潜んだ忍者が、屋根板を音もなく外して、しずかに畳の上に降りる。殿様を討て、そう命を受けて来たのである。寝床に忍び入り、枕元に立つ。やすらかに上下する殿様の胸元めがけて懐刀を振り下ろさんと構えたとき、殿様がかっと目を見開いた。忍者はひるみ、ひるんだ隙に殿様はすばやく頭上の脇差しに手をやって、侵入者を袈裟斬りにする。倒れた忍者はこれを訊かずば死に切れんとばかり、
「ど、どうしてわかった」
殿様は、抜き身を血振りして言い放つ。
「貴様の口が臭かった」

これは学習マンガ『忍者のひみつ』の一幕である。口臭のせいで返り討ちに遭わぬよう、忍者は暗殺の前に、舌で歯の表面を三周ほど舐めつけるという。そうすれば、口の臭いが消えるのだ。小学生の僕は忍者になりたい一心でこの本を熟読した。ところが、これから大事な局面というときに、鼻の下に舌を突っ込んで口をもごもごさせ、口臭消しにはげむ忍者のすがたを想像して、あこがれが失せた。特殊な木片でみなもを歩く水蜘蛛、色を塗った米粒でやりとりする暗号通信は、実際の都合――浮力が足りない、置いたそばから鳩のエサになる――を考えずに信じきった。それなのに最も現実的で、来世紀にも通用しそうな口臭ケアの忍者心得だけは、どうしても信じられなかった。それがあまりに現実的過ぎたからである。

においではナポレオンも起きない

こんな小話がある。睡眠中のナポレオンを使用人が気持ちよく目覚めさせようと、彼の鼻先の好物のブルーチーズを近づけた。するとナポレオンは、
ジョゼフィーヌか。今夜は勘弁してくれ」
と、寝言で妻を退けたという。カビ臭いブルーチーズと愛妻を取り違えたのだ。カン違いの元凶、ジョゼフィーヌの体臭とは一体どれほどのものか。想像は膨らむが、ここでの焦点は、ナポレオンほどの大人物でも、においでは決して起きなかったということだ。

自分の経験に照らし合わせてみても、においで起きた試しはない。寒さ暑さで目が覚める。便意、尿意、のど痛、鼻炎の各種号令で起床することはあっても、台所からただよう炊けた米の香ばしい匂いに誘われて起きたり、反対に部屋のくず箱から立ち昇る生ゴミの腐臭で夢を破られたこともない。

最もよく睡眠を中断するものは音だ。部屋の片隅でなにかがコトンと転げるだけで、一瞬、意識がふっと覚醒する。「ひ弱なやつめ、おれはどんな騒がしい場所でも五秒で寝付けらあ」と豪語する人も、耳もとで蚊にぷーんと高い羽音をたてて飛び回られたら、ひとたまりもあるまい。目覚まし時計は匂いを出さずに音をたてる。高デシベルであるほど高性能の売り文句がつく。耳栓をしても、鼻栓をして眠る人はない。鼻腔に詰め物をして横たわるのは、死人だけである。なぜか。目を閉じたあと、活躍できる穴ぼこは顔に五つある。鼻はすでに空気の通り穴として使用済み。口は開けて寝ると顔がみっともないし、知らぬ間に蜘蛛を飲む可能性だってある。だから必然、耳の穴が情報収集役として幅を利かせることになるのである。

予期せぬモーニングコール

日曜の午前六時。つい二時間前まで英国ドラマ『SHERLOCK』を観ていて気絶するように眠りについてからすぐ、沈潜する意識の海から黒電話の鳴る音で地上に引きずり揚げられた。何事かとあたりを見張る、その目が外気に触れて痛い。iPhone6と、SIMカードを抜いて使用するiPhone5が、二台とも同時にベル音をがなり立てる。頼んだわけでもないのに、古いほうも親機を中継して電話を受けるのだ。

画面に出たのは知らない番号である。こんな朝っぱらから用事のある人間を友達に持たないし、そもそも友人知人なら番号を登録している筈だから、と回らぬ頭を必死に働かせていると、ひとりでに着信が切れた。どうせ間違い電話だろう。

寝入って十五分、遠くから黒電話の大合唱が聞こえる。この野郎、二度も人のスウィートな眠りに妙なちゃちゃを入れやがって。僕は怒りに顫えた。通話を拒否し、本体を機内モードに切り替えて外界との交信を絶つ。いまわしき受話器をソファに投げ、平和のうちに安眠をむさぼった。

反省のリダイヤル

正午、長い夢から醒める。けさは寝不足の不機嫌にまかせて着信を無視したが、いま秋風に触れるすがすがしい気持ちでまどろみの中の出来事を振り返ると、ちょっとやり過ぎたかもしれないという悔いが残る。休日の早朝六時に二度の電話を寄こしてまで伝えたい要件だ。相当さし迫った事情にほかならず、間違いなら間違いであることを早く当人に知らせた方がいい。僕はリダイヤルした。

「はい、谷村です」
年配の男性の声。駅かどこか、たいへん騒がしい場所にいる。
「朝方お電話いただいたと思うんですが……」
「あっ。そうそう。それなんですが、明日はお時間あります?」
こちらの声を聞いてもまだ人違いだと気付かない。
「あのー、お電話かけ間違ってませんかね?」
核心に切り込んだ。
「へっ」と虚をつかれる相手。しばらく黙考して
「ムナカタさんではないですか?」
「○○○○です」
「えっ。ムナカタさんじゃない?」
「○、○、○、○です」
ここで相手が執拗に訊き直したのは、偶然にも僕の苗字とムナカタという名前が似ていたからである。だからといって間違い電話の理由にならない。ムナカタさんと僕をかけ間違うには、双方の番号を知っている必要があるからだ。名前が似ているばっかりに妙な迷路に入ってしまって、気まずい沈黙の間が空いた。やっと事態を飲み込んだ電話主、以後の手続きをあれこれ考えているのか、
「あー。すいません」
と、うわの空で応えて通話を切る。

何はともあれ大事でなくてよかった。コーヒーを飲んで一服、つまらないやりとりをおさらいし、自分では善事をなした気分で得意になった。何ごとも面倒臭いと言ってやらずにいるより、動けば何かしら得るものがある。必ずしも成果は約束されないが、達成感だけは行動の末、確実に得られるものだと思った。慈善の心を養うこと二十分、ふたたび黒電話のベルが鳴る。
「あのう、ムナカタさんですか?」
僕の第一声に慈善家の誇りはなかった。

 

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