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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

「簡単にやっているようで実はだれにも真似できないアレ」のはなし

たいへん錯綜しております。本だらけ。部屋のどこに視点を置いても、うずたかく積まれた本のタワーが見えるありさまです。あれもこれも読める、と考えると幸福この上ないですが、読まなくちゃならないと思うと一転悲惨です。

ときどき手足が触れて、山が崩れます。中腹からまろび出た本が、まるでじぶんの見覚えのない本だと、ぞっとします。買っていたという驚きと、読んでいないという事実、忘れてしまっているという情けなさ。予想外の発見がいつも喜ばしいとは限りません。夜道で足をひっかけて、なんだと思って近寄ったら、ちぎれた腕だった。本の場合、そこまで悪くありませんが、持っていることを忘れてしまうほどだから、どうせ自分ではつまらないと思っているのです。

読まないうちに次のものが欲しくなる。じつは読書より本の蒐集のほうが好きなのでしょう。108円の中古本ばかり買い漁る、ショッピング依存症でも最もスケールの小さいやつです。本屋ではあんなに面白いのに、どうして家に持って帰ってくると、途端につまらなくなるのでしょうか。これは脈ありだ、と思わせておいて、いざという段になると態度を変えて突っぱねる。気まぐれの戦術に、今度こそは、と思ってまた出逢いを求めて行ってしまうのです。


まずは買った本。

井上ひさし『喜劇役者たち』(講談社文庫)
宮沢章夫サーチエンジン・システムクラッシュ』(文春文庫)
――――『よくわからないねじ』(新潮文庫)


つづいて借りた本。

大槻ケンヂ『綿いっぱいの愛を!』(角川文庫)
宮沢章夫『素晴らしきテクの世界』(筑摩書房)
能町みね子『言葉尻とらえ隊』(文春文庫)
―――――『お話はよく伺っております』(エンターブレイン)
「yomyom」編集部編『作家の放課後』(新潮文庫


エッセイだらけです。宮沢章夫のものが多いのは、大槻ケンヂのエッセイを立ち読みしたとき、彼が影響を受けたという人に、杉作J太郎中島らも宮沢章夫を挙げていたからです。ほか二人は知っていましたが、宮沢章夫という人物は知りませんでした。「宮沢さんの本を読んでエッセイを書きたくなった」とベタ褒めされているのをみて、こりゃ凄い人に違いないぞ、と思ったのです。いとうせいこう竹中直人らと組んだ「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」という劇団ユニットの作・演出をしていた劇作家です。

文章に強烈な個性をにじませる人ではありません。いたって普通に、日々思ったことを展開していくだけです。しかし、それがふつうに見えてふつうではない。簡単にやっているようで実はだれにも真似できないアレではないかと思います。発想の糸口がまるで掴めません。傾向として、世の中にある「AはBである」という定型、この「A」を「C」と取り替える、あるいは「B」を「D」と置く。そして様子を観察してみるという実験的、空想的なおもしろさがあります。一例をご覧にいれましょう。『よくわからないねじ』から、占いのアドバイスの不思議をとりあげた文章です。

 

「自分の可能性に挑戦して吉。状況が好転することあり。信念を貫いて吉。愛の力を信じて吉」
いいことずくめだ。確かに元気が出そうだが、これはもしかすると、文体のせいではないか。この勢いとリズムの心地よい文体なら何が書いてあっても読む者は元気が出るのではないか。
「水を飲んで吉。その水でうがいをして吉。ぴゅっと吐き出して吉」
なんでもいい。
「道で転んで吉。頭を打って吉。血が吹き出して吉。」
あるいは、
「借金ができて吉。やくざに追われて吉。妹が売られて吉」
なんだか元気が出るのである。 (p.282)

 

おかしくて笑えます。しかも妙に説得力がある。これは実在する占いの内容をイジるという操作の分かりやすい例ですが、もっと抽象レベルの高いところでも同じことをやるのです。私たちが常識として頭にセットしているいろいろな事象、観念をあっちゃこっちゃ取り替えて、日常風景を一変させていく。とぼけた語り口でどうでもいいことを話しているうちに、ひそかな瓦解の緊張感がみなぎってくる。そんな面白さがあります。あまりに鋭い眼を、口の鈍を装って隠す。簡単に読めるのに、読むたびに深く考えさせられました。

 

「考えさせられた」は、要するに、「普段は考えない社会問題、世間の不条理、矛盾、やるせなさなどについて珍しく考えてみたけど、いまいち何の結論も得られなかったし、どう考えを巡らせたのか言語化するほどの頭脳はありません」という意味でしょう。もっと砕いて言えば、「難しくてよく分かりませんでした」と同義です! 能町みね子『言葉尻とらえ隊』, p.45.