「厳格な牧羊家」のはなし

『ベスト・エッセイ 2015』(日本文藝家協会編, 光村図書)を読みました。作家74人のおもしろエッセイが収録されている本です。どーやったら、ほわほわしたエッセイって書けるんですかね? 日常のなにげないシーンを描いているだけで、信じがたいほど味わい深い、よしもとばななのエッセイに衝撃を受けました。タクシードライバーとのちょっとした会話を読まされるうちに、いつしか深い人間ドラマに引き込まれてしまう作品(そう、まさに作品!)です。

ブログでも、ほんのささいな日常の一コマをとらえて、やさしい世界観を打ち立ている人がいますが、心の余裕、人柄のあたたかさが本人の意図せざるところ各所に滲み出ていて、うらやましく思います。こればっかりは演技演出でどうにかなる問題ではない。切れ者に見られたいとか、常人ばなれした感性の持ち主であると思われたい。そういうことを第一の目標にして書かれたものは、ヘンに前置きや言い訳ばかりが長くなって肝心の中身がなく、かんたんに見破られてしまいます。ポーズをとることに体力を消耗しているからです。深刻ぶったものの言い方をしている人が、案外浅薄であるということはよくあります。ブランド好きの女性にたいして、そんな記号に意味あるかと馬鹿にしながら、自分ではモデル立ちしている人に、説得力はありません。

エッセイを読むと、いかにも癒し系とかおっとりしている人のほうが、じつは繊細なのだと気付きます。私たちが日常生活で見逃している微妙なサインを見事にとらえているからです。もっともらしいニュースとか、事件、出来事がない限り、ものを書くことができないというのでは、鈍感というほかないでしょう。「いや、自分のつまらない日常の話なんてだれも聞いてくれないし、話す意味ないよ」と、ひるんでしまいます。エッセイストと私たちをわける境界線は、ここにあるようです。個人の経験がそのまま他人に通用すると思う勇気、信念を持てるかどうかの違いです。

これは、開放性の問題です。ささいな意見、感想を受け止めてもらえる人間がまわりにたくさんいる人は、きっと何におびえることなく自己開示することができます。反対に、打ち解けた人間関係を持たない人は、その文面にコミュニケーションにたいする絶望感が現れていることが多いです。閉塞的で、自省的で、消極的で、自己言及が多く、安定していて、悪く言えば凡庸で躍動がなく、エネルギーに乏しい。羊を一匹も漏らさぬように柵を張り巡らしている牧羊家みたいなものです。管理は完璧ですが、その分なにも起きない。柵がひとつぐらい欠けていても気にしないおおらかな人は、ほかの羊、犬や馬を迎えることができます。人間も冷蔵庫も、隙がないとそこに何も入れることができない。この基本的な事実を無視すれば、肝心なものを腐らしてしまいます。

もともと何ごとも予定通りにいかなければ気が済まず、神経症的な部分があるのですが、最近はあえて予測不可能な、未確実なことを増やすようにして、自分の閉じこもり体質を変えようと思っています。たとえば目的地までの道のりをあえてつぶさに調べない、バスや電車の時刻をあえて見ずに、その場の成り行きに任せるようにする。そう心がけるといろいろと事件が起こるものです。ボタンを押した筈なのに、バスが停留所を通過しても停まりません。まあいっか、次で降りようと諦めたとき、車内スピーカーから「うわああ、降りるお客さんっ」とあせる運転手の声がして、バス停でも何でもないところに車が停まりました。ハプニングを楽しもうとする気構えがあれば、何ごとか舞い込んでくる。またそれを笑って受け入れることもできる、とそのとき気付きました。

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