おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

「○●○、●○●」のはなし

マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』というドキュメンタリー映画を観た。コロンバイン高校で起きた銃乱射事件をメインテーマに、銃社会アメリカの奇妙さを皮肉に描いていく。

まだ途中までしか観ていないから、なんとも言えないが、冒頭のシーンは傑作だった。マイケル・ムーアが、銀行を訪れる。その銀行では口座を開いたら、キャンペーンでライフル銃がもらえるのだ。ちゃんと銃の販売許可を得ている正統なガンショップでもあり、地下につねに500挺のライフルを用意しているという。最新のライフルを構えたマイケル・ムーアが行員に訊く。「すばらしい銃だ! でも銀行で銃を売るのって危なくないか?」  で、タイトルコールへ。

素敵なオープニングだ。銀行で銃を販売しているというおかしさ、それが正式に認可されているというおかしさ。まるでコントみたいなシーンを冒頭に置いたのは、アメリカの内包する矛盾を先鋭的にあらわした好例だからである。

ふだんドキュメンタリーは観ない。観ても、もっとお気楽なものだ。たとえば、有名ファッション誌VOGUEの編集長アナ・ウィンターの密着ドキュメント『ファッションが教えてくれること』。不動産王が、サブプライムローンのあおりを受けて、どんどん没落していく様子をとらえた『クィーン・オブ・ベルサイユ 大富豪の華麗なる転落』。直近で観たのは、これぐらいである。社会派のものは、環境問題を扱った『不都合な真実』を何度も借りた。ところが観たわけではない。借りて見ないという愚行をひたすら繰り返したのだ。期限までにあと1本しか観られない場合、ドキュメントより映画を選ぶ。たいてい夜中に観るから、夢になじむフィクションがよく、社会派ドキュメンタリーで深刻な現実を直視せねばならないのは、寝る前にちょっと荷が重い。どうせ観るなら、昼間のシリアスな気分のときがいい。

ボウリング・フォー・コロンバイン』を観てから、ドキュメンタリーの編集の妙というか魔術にハマった。これは常識のオセロゲームだ。流通している白い現実○を、黒い事実●で挟んで●に書き換える作業である。現実社会の動きはつねに、○●○、○○○。ドキュメンタリーはその逆をやるわけだ。

たとえば劇中、全米ライフル協会(NRA)の会長が演説する場面がある。内容に着目すると、特別ヘンなことは言っていない。「いまこそ国民が団結するときだ」とか、「未来のアメリカを創っていこう」というありがちなメッセージだ。その前後に、ある演説が挟まれる。銃撃によって高校生の息子を亡くしたお父さんが、銃反対を切に訴えるものだ。○は●に裏返る。NRA会長がライフル銃を握りしめ、天高く突き上げている姿はもはや勇ましいというより、おぞましく映る。

もちろん、ドキュメンタリーによって描写された現実のすがたは、またひとつの虚構にすぎない。編集は、あえて無編集でいることを含めて、かならず作り手の属性(たとえば、男であること、白人であること、異性愛者であること)が反映される。真正の現実というものは存在しない。私たちの顔におさまった二つのカメラがみせる映像も、脳によって逐一編集されている。だから○と●、どちらが正しい?と問うことに、さほど意味はない。この盤上で唯一意義のあることは、ゲームを続けること、それ自体である。

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