おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

「夏のスケッチ」のはなし

梅田のロフトに行ったら、夏休みの自由工作キットが売っていた。完全に子ども向けの商品だが、パッケージを見るだけでわくわくした。紙粘土をつかって、小物入れや貯金箱、「しょうらいのじぶん」像をつくるのだ。

まず、紙粘土が懐かしい。その質感は好きじゃなかった。幼稚園ではずっと灰色の粘土をつかった。固まらず、何度でも潰して遊べるやつだ。その重量感とか肌触りに慣れていたから、軽くて成形しづらい白い粘土が、まがいものという感じがした。唯一の美点は、固着するということである。それも裏を返せば、修正しにくいという大きな欠点だ。

親が空けた酒瓶に、色かたちの凝ったものがあった。それに紙粘土を巻きつけて「城」としたのを覚えている。ところどころ四角に切り取って、露出した青いガラスを窓に見立てた。創意工夫はそれだけだ。ほんとうに水がふき出す噴水広場を作ってきた子が同じクラスにいて、腰を抜かした。

親の入れ知恵があったと思いたい。理科教諭の娘は、仮説とか検証とか、ほんとうの研究の手続きを踏んで、「ものが腐るとはどういうことか」をまとめて、学年最高の評価を得ていた。工作も研究も、自由というけれど、親の趣味とか教育程度が影響力を持っているんじゃないか。先日図書館にいたら、両親に手を引かれて小学生がやってきた。自由研究のテーマについて参考文献を探しているのである。小学生の分際で、参考文献とは恐れ入る。小学生のぼくは、夏休みのあいだ日記をつけて、それを堂々と「研究」と称して提出していた。だって自由じゃないか。

いま「しょうらいのじぶん」を像にしろと言われたら、なにを作るだろう。長方形のシンプルな小箱をつくって、開いたらなかに人骨がある、という「棺桶」。これだと印象が悪くて点数がつかないかもしれない。仕方ないから思いきりリアルな「ゴリラ」をつくる。

大人の工作キットもあった。銀粘土をつかったシルバーアクセサリー製作だ。粘土には銀の粉末が混ぜ込んであって、加熱すると水分と結合剤が飛び、純銀だけが残る仕組みである。すごい。自作のものに愛着がわく「イケア効果」があるとはいえ、それを身に着ける勇気があるかどうか。「あれ、アルミホイルの切れ端が付いてますよ」なんて自信作をゴミ呼ばわりされたら立ち直れる気がしない。

ガレージに大きな家庭用プールをだして、子どもを遊ばせている家があった。うらやましい。幼いころ、おばあちゃんの家でプールに入った。すこし大きめの水桶を「プール」と呼んで、従兄弟とふたり、膝を抱えてむりやり入ったのだ。水桶のなかでは身動きひとつとれない。入るというより詰まる。泳ぐというより浸かるだ。折りたたんだ脚のすねあたりに水面があった。それなのに二人ともちゃんとゴーグルをしているのだ、決して潜れない水中に潜るときのために! そんな悲しい矛盾を気にせず、会心の笑みをもってカメラに向かい、ピースする写真が、居間の写真立てに収まっている。

裏っかえしになったカナブンが排水溝にいた。自分ではもとに戻れないらしい。6本脚でせわしなく空中を掻くから、亀よりみじめにみえる。放っておいたらこのまま死ぬかもしれない。指を掴ませて立ち直らせてやろうか、と思った。ただ、こいつを助けてほかの虫を救わないのでは筋が通らなくなる。アスファルトに打ち揚げられたミミズを地中に戻し、血を吸った蚊をそっと包んで放免してやるのか。ごめんである。これも自然の定めと思って見殺しを決めた。用事を終えて戻ってきたら、カナブンはまだいた。ゼンマイを切らした玩具のように途中で動作が止まっていた。きっかけを与えたら、死んでいるのに、あとふた掻きはしそうにみえる。べつに哀れだと思わない。運がなかっただけだ。転んだカナブンにも、吹いてきた風をつかまえて、向き直るやつがあるだろう。もがいたって死ぬものは死ぬ。風を待ちつづけて死ぬものもいる。雨が降れば、命絶えるものがでる。そして反対に生き延びるものもでる。

セミの死骸はそこらへんに落ちている。じゃりっ、と靴裏で音がしたとき、実際は死んだ成虫をつぶしていても、抜け殻を粉みじんにしただけと思ってやり過ごすしかない。夏は生き物のいちばん輝くシーズンである。同じように、一段と生命の終わりを意識させる季節でもある。冬の死はきれいだ。雪山で死んだ人間は、いつまでも原形をとどめている。夏に立ちこめるのは、太陽のにおいとセミの鳴き声ではない。斃れた有機体のにおいと、それが悲惨に朽ちていく音である。

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