おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

「読みほせ、修造」のはなし

ごきげんようのサイコロで「怒った話」の目がでても、「そうですねえ」と言ったきり、虚空を見つめて固まってしまう。当初はにこやかな小堺さんもしまいに怒りだすだろう。

最後に「キレた」のは小学校5年生のとき。自然学舎で訪れた和歌山の青年教育センターみたいな施設の体育館だ。他クラスのいけ好かない奴に、不意にうしろから、寝ぶくろで頭をぶたれた。その瞬間、プチっときて、殴り合いのケンカになった。先生にみっちり絞られたあと、子どもながらに、あまり感情的になってはいけないと反省した。あれから、とり乱すほど激怒した経験はない。日常で、ちいさい怒りのわくことはあるが、いちいちトークの再構成に耐えられるほど強く記憶が残らない。これで誇っていると思われたら、困る。憂いているのだ。感情的であることが、どこかネガティブなものと思って生きていることの、つまらなさに。

 

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(いくら何でも濡れすぎだ、修造。)

 

松岡修造の「あつさ」をシニックに笑う目をしている。街中で怒鳴る人をみたら、かれの人格の粗野、精神の未熟をなじって笑いものにする。キレが芸になるのは、時代がそうした感情の沸騰をふだんの生活に許さないからである。「気分が乗ってこない」と言って仕事をしない人間はいまや売れない芸術家か、ニートに限られる。社会は、感情が介在しないときに最大の成果があがることを知っている。機械は誰よりも「情熱的」に働く。

お笑いコンビ・パックンマックンのパックンが書いた『ツカむ!話術』という本がある。ひとに話を聞いてもらうには、ロゴス、パトス、エトスに訴えるのが大事だ。ロゴスは論理のこと。パトスとは、心の動き、情熱、激情。エトスは、話の信頼性をあげる人格的な要素、つまり話者の品格、価値観、センスをいう。おもしろいのは、
エトス(人格)>パトス(感情)>ロゴス(論理) という力関係の存在だ。

「どんなに綺麗な言葉づかいでどんなに論理的に正しいことを言っても、エトスの信憑性とパトスの感情力を伴わないと説得力がない」*1

交通事故で息子を亡くしたお母さんが悲しみに暮れている。そこに統計学者がやってきた。グラフを指して「ありえることですから」と声をかける。つづいて霊媒師が語りかける。
「見えました。息子さん、実はあなたのそばにずっと居るんですね。そっと見守ってくれています。なにか話していますね、『大丈夫、ママのせいじゃないよ』と言っています」
母親はどちらの話に耳を傾けるだろうか。

ひとは合理のプラカードを持って歩かされる。「ロジカルシンキング」を掛け声にして、ぐいぐい論理の行進だ。勇ましい足踏みの一方で、ロジックのほころびに心底おびえる。おい。つじつまが合ってないぞ、と突っ込まれるのがなにより怖い。しかし、ほんとうに恐るべきは力関係の錯視だ。論理が感情に優先するという信念だ。逆説的だが、人を捕まえるには、穴のあいたの網が要る。完全な網目では、この動物には精確すぎるのだ。

 


*1 パトリック・ハーラン『ツカむ!話術』角川新書, p.93.

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