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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

「他人の絵馬」のはなし

神社の境内にある絵馬をじっくり眺めた。皆がどんな願い事を書いているのか知りたい。学問の神を祀ってあるわけではないのに、やたらと合格祈願が目立つ。どこの神社もきっとそうなんだろう。大人になったら一々の願い事のために絵馬なんて書いてられない。主人公は子どもである。子どもには数年に一回、神頼みの必要な局面が訪れる。受験だ。小学校から大学まで、あらゆる段階の合格祈願がそろう。

一口に合格祈願とっても、執筆者の自意識にはバリエーションがある。たとえば、「京都大学医学部医学科」とはっきり書く人もいれば、単に「志望校」とだけ記す人もいる。

ぼくは現役受験生のころ、地元神社の絵馬を物色して、だれがどこの学校を受けようとしているのか、地域一体にすむ同級生の希望進路をあらかた把握していた。たいてい苗字をセットにして書くから、すぐに身元が割れるのだ。

「志望校」とだけ記す人は、きっと学校のランクを気にしている。たいてい上位校の名前しか出てこないからである。つぶさに調べれば、学校名の出現率と偏差値のあいだにおもしろい関係が見つかるかもしれない。もちろん「志望校」とだけ書けば、トリマーの専門学校から防衛大学校のレンジに対応できるから、進路に迷いがある人も自然とこっちを選ぶことになる。

「本来の実力が発揮されて……」という文言をわざわざ足す人がいる。これはちょっと複雑だ。そっくり神頼みするわけではない。信じるのはじぶんの実力だ。その力が試験当日なんらかの原因によってうまく発揮できないかもしれない。だからその場合には頼む、という自他力のハイブリッド絵馬である。ただ漠然と「合格できますように」と書くだけでは力の入れどころが分からない。風邪薬もじわあと効くだけじゃ物足りず、鼻水なら鼻、頭痛ならの頭とターゲットを絞るほうが心強い。「採点者の目がくらんで」とか「ほかの受験者が道に迷って」と冒頭になにか添える方が、効き目に期待できる。

ひとの絵馬ばかりを見て、じぶんでは書いたことがない。というより、書く余裕がなかった。「人事を尽くして天命を待つ」段階にきて、はじめて絵馬が書ける。目のまえの人事に精一杯で、木の板にインクを染み込ませている場合ではなかった。試験が始まる直前、「関係ないものをしまってください」とアナウンスがされた後に、はじめて神を頼んだ。首からさげた四つ葉のクローバーのペンダントを握って、受からせてくれと天に乞うたのである。結果、4点足りずに合格を逃した。八つ葉のクローバーでなかったのがまずかった。

一枚、心を打つ絵馬があった。ぐらぐらした手で
ことしも
ままとあそべ
ますように
と書いてある。

願いとは本来、これほどくだらなく、これほど深刻なものを言うのではないか。いい学校に入りたいという願いは、直接幸せを求めることではない。いい学校、いい仕事、いい収入をどこまで突き詰めても、それを幸せと等式で結びきることは不可能である。世界が厳しいのは、これを誤解したままで死なせてくれないところだ。

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