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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

「音痴による音楽」のはなし

読者になっているブログに、音楽の評論・感想をあげているブロガーさんが何人かいる。記事を読むたびに、その感受性と表現力に打ちのめされる。ぼくは、音楽についてなにかを表現できる知識、ボキャブラリーをまったく持たないからである。同じ曲を聞いていても、感じ方がまるで違う。じぶんがいかに貧しい音の世界に住んでいるのか、痛感するのである。

「音楽は理解しがたいもの」というイメージは、「そんなもの理解してやるか」という投げやりな態度と一緒になって、幼いころに作られた。音楽の授業で合唱の練習中、「だれか音程を外している奴がいるな。君じゃないのか」と皆のまえで名指しをくらったのである。そこで初めてじぶんが極度の音痴であることを知った。

それ以来じぶんが不協和音をがなり立てているのではないか、という疑心が常にあって、無邪気に音楽を愉しむということができなくなった。楽器の演奏でも、技量があまり要求されないパートだけをやった。「音楽会」とラベルされたビデオテープをみると、ときおり鈴を上下に振るだけの姿が確認できる。

中学生の頃、クラスの男女6人で集まって遊んでいたときに、だれかがカラオケに行こうと言いだした。しぶしぶカラオケ店にむかったが、どうしても歌うのが嫌だったぼくは、店につづく階段の踊り場で「急用」を思い出して帰った。振り向きざまにとらえた皆の顔が忘れられない。きょとんとする者、にやつく者、嫌悪をあらわにする者とさまざまだった。付き合いでどうしても行かなければならない時もある。そんなときは一度もマイクを握らずに、良き聴衆に徹することにしている。

唱歌にたいする姿勢は音楽の聴き方を変えてしまう。ある友人はドライブの最中、ラジオから流れるJ-POPを耳にして、「これは歌いやすそうだ」と言った。後部座席から賛意の声があがる。なるほど、楽曲を歌いやすいかどうかで測る聴き方があるのかと知って、おおきな衝撃を受けた。

あのとき、ぼくの音痴を鋭く見抜いた先生は女性だった。そう考えると、歴代の音楽教師はみな女性である。どうやら教科には性の別がある。技術/家庭は、かならず男性教師が技術を担い、家庭科は女性教師の任である。現実世界の男女の分布図は、授業のみならず、学校の運営じたいにも表れている。校長や教頭はたいてい男だ。女は保健室を担当して生徒の補助にあたり、思春期を迎えた男子の、ある種のうわさの種になる。学校では男女だけでなく、部落や障がい者の差別について、かなりの念入りに「平等」の思想教育を施されるが、とうの学校組織そのものが暗に社会的な選別を示す巨大な教科書となっているのだ。勉強のできる者とそうでない者を分別するだけが、この装置の機能ではない。

子どもはずっとお母さんから本を読んでもらう。こうした体験が、読書行為をどこか女々しいものとして本人に理解させる。男の子が「男らしさ」をとりこんで成長するとき、本を読むという「女じみた」行為からしぜんと身を遠ざけるようになる。幼年期における男女の成績差を説明する仮説のひとつだ。音楽の場合はどうだろう。ピアノをやっている男にどこか女性らしさを感じるのは、幼いころから女教師のピアノ演奏をうけて育ったからではないか。それに対してギターはどうか。ここから先は手に負えない。先生たすけて。

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