おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

「散歩と死」のはなし

「歩こう、歩こう、わたしは元気」で始まる『さんぽ』という曲がある。映画『となりのトトロ』の主題歌だ。そのなかに「でこぼこじゃり道」という一節がある。いま未舗装の道を歩くことなんてほとんどできない。一般道路の8割は舗装済みだ*1。

都市ならどんな狭路であろうと奥まですみずみアスファルトが行き渡っている。市街地では土をみることが難しい。公園はある。しかし、あれは街路樹とおなじく、きわめて巧妙に配置、演出された自然のすがたである。まったく手つかずの土や木々がそのままあるわけではない。あえて田舎へ行くことでしか、いまでは自然らしい自然を体験する方途はない。森林浴のために、山をくり抜いて通した高速道路を走って行くのが現代流である。

散歩といえば哲学者だ。逍遥(=歩き回ること)をそのまま名前にした学派がある。アリストテレスが学校の廊下を歩きながら講義したことが由来の一説だ。カントも歩いた。彼はどちらかというと時間厳守のいきすぎた人として例に挙がる。毎日ぴったり同じ時間に散歩にでたからだ。街の人は彼の歩くすがたをみて時刻を知った*2。日本にも「哲学の道」と呼ばれる所が京都にある。西田幾太郎らの歩いた散歩道だ。しかしどうして哲学者ばかりが散歩と結び付けられるのだろう。大工や豆腐売りだって同じか、それ以上に歩いているというのに。

ヒトを動物から分かつ最大の特徴は、直立二足歩行である。ヒトは歩く。というより歩くからヒトなのだ。歩くことなしに日常生活は立ちゆかない。高齢者の介護でも自立歩行できるかどうかが最大の焦点となる。哲学者が散歩者として語られるのは、彼らが人より多くの歩数を踏むからではないだろう。歩くことと考えること、すなわち歩行と知性というヒトのもっともヒトらしい表現を彼らのなかに見い出すからだ。ソファーに寝そべったままで思索にふけるカウチポテト族の哲人はちょっと格好がつかない。

歩くことは運動だ。酸素をとりこみ血のめぐりがよくなって頭がまわる。この理屈はよくわかる。しかし、散歩だけがアイデアの産地として優遇される資格はない。車や電車に乗っているときにも考えは深まる。論述の試験がある日、バイクの上で頭の整理をすると大変はかどった。猛スピードで目的地へとひた走るなか、「こういう問いなら答えはこうだ」という仮想答案を作っていくのだが、机の上でやるより高速処理できる。足を漕いでせいぜい時速20㎞の人間が、その二倍三倍速で移動するのだから思考にも影響があるはずだ。F1ドライバーは景色がモノクロに見えるという。決して気分の問題ではない。

機械のない時代、人間が人為を超えた速度を出そうと思えば重力を借りるしかなかった。もっとも速いのは垂直落下である。バイクは危ない乗り物だ、事故にあって死ぬぞと親から再三注意されたが、交通事故は死にかたちを与えるにすぎない。横方向への高速移動は着地点のない飛び降り自殺である。信号が青に変わるたびにビルの屋上から身を投げることになる。この反復的な臨死体験こそが、乗り物にべったりはりついた死の本質である。

散歩のはなしをしていたら死んでしまった。もう収拾がつかないので、このまま終わる。目的地の定まらないそぞろ歩きは危ないということがよくわかるからである。

 


*1 国土交通省 道の相談室:道に関する各種データ集
*2 「彼の日々の生活は時間的にきわめて正確に運ばれ、ケーニヒスベルクの町の人びとは、カントの散歩の姿を目撃して、時刻を計ったといわれている」,大井正・寺沢恒信『世界十五大哲学』PHP文庫, p.372.

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