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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

「変人」のはなし

中島らもエッセイ・コレクション』のなかに、変人について書かれた項があった。変わり者には二種類の人間がいるという。とっぴな行動をしていても自分ではまったく変人だと思わないタイプと、みずから変わりものを演出しているタイプだ。

そのエッセイに、色道の大家を自負する翻訳家がでてくる。彼は、原稿の催促にやってきた出版社の人間を待たせているところに、衣服をはだけさせ、首筋に口紅のあとを残したまま登場する。一体どんな女と寝ていたのか見てやろうと思って編集者が家の裏手にまわりこみ中を覗いたら、そこに女性の姿はなく、彼がぽつねんと独りでいるだけだったという。こういう演出をする気持ちはなんだかよく分かる。じぶんをよく見せようと思って威張ることなんてふつうだ。演出の度合いが常識的な域を出ると、変人になる。

一見してすぐにわかる変人もいる。たとえば、空中の見えない相手と激論を交わす人、ピンクのランドセルを背負う少女装趣味のおじさんなどである。一日中街をあるけば必ず一人や二人あきらかな変わり者と会うことになる。同級生にも、授業中に教室の床のうえを芋虫のように這い回って先生の話を聞かない子がいた。登校中ちかくの公園でかならず二度寝してからやってくる生徒もいた。行動から思うほど彼らは危なくない。奇妙であることのラベルが表にあるだけ、こちらで近づかないことができるからだ。厄介なのは、良識人の皮一枚したに別人格を深めているような奴である。

自分が変人かどうか自覚するのは、おそろしく難しい。それを当然と思って生活しているものを、べつのだれかの視点から見つめなおすなんて、不自然きわまりない。客観視を突きつめて、あらゆる行動と考え方を修正し、真正な常識人になってやろうと画策している人がいたら、それこそ奇人である。しかし、じぶんのこだわりや癖、習慣などを点検してみる価値はある。とてもスリリングな試みだ。対極的な生活信条をもって暮らす人からみれば、手枷をして地下牢に繋ぎとめておくべき罪人と映ることもあるだろう。

奇行がもっとも見えやすいのは、ひとの根源的な欲求に結びついた行動だ。たとえば衣食住の局面で、こうしておかないと気味が悪いという特定の方法に固執していることが必ず一つ二つあるだろう。それを取りだして他人と比べてみると自分の奇人的な側面を意識することができる。「好きな食べ物はなんですか」という質問は、ライトな奇人判定機だ。ぼくは石灰石に目がなくて、と正直に告白する人はまれだが(石を好んで食べる人はたくさんいる*1)、回答にはその人の趣味がでるだろう。「好きな体位はなんですか」と訊くのと大筋同様である。

衣に関してわたしは徹底的な事なかれ主義を貫いている。クローゼットには黒か紺、また白の服しか入っていない。カラフルな服を着ることはパーソナリティと摩擦をきたす。ファッションを楽しむ人からすれば、おぞましい振る舞いだろう。「まったくオシャレじゃないけど、変な恰好をしないところがエラい」と彼女は褒めた。そのすぐ後で「あなたと一緒にいてもホントにつまらない」と挽回不能の破局宣言を突きつけられる。服装と人格をイコールで結ぶのは乱暴だが、何事も攻めないでいてはおもしろくないというのは事実だ。しかし、攻めすぎると今度は向こうで奇人のレッテルが待ち構えている。センスとはこのところのバランス感覚をいうのだ。

 

*1 そのままバリバリ食べる人もいれば、粉末にして料理に混ぜるグルメもいる。園芸用の石などは見ていて美味しそうだ。カリエール,ベシュテル『万国奇人博覧館』ちくま文庫.

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