「歯」のはなし

歯が悪い。

下に四本、上には五本銀歯がある。じぶんでは歯の三分の一に詰め物がしてある状態を見ることがないから何とも思わないが、話し相手は余程気になるらしく、会話中にこちらを制止して「ところで銀歯おおいね、君」などと言われてしまうことがある。最近はそれと分からぬ白いかぶせもあるのに、どうして格好のつかない金属なんかを入れるのだと非難する奴までいる。そいつはスタバでも何処であろうと、寝ぐせをなおさず部屋着のままでやってきて、治験バイトで得た大金をパチンコ台に突っ込んだ話を大声でする。そんな奴が歯の白さだけは気にするのだから面白い。貧乏人は歯を悪くするが、おれは違うのだという自負の色である。歯のありさまが沽券にかかわるのは、女優業で生きる人間に限った話ではない。

寝る前の一回しか歯を磨かないのに、これまで一度も歯医者にかかったことがないという友人がいる。こちらは日に二度三度磨いても歯を虫食いの穴だらけにしているのに一体どういうわけか。幼いころから歯磨きの尊さについてやたらと説教を受けて育ったが、日にいっぺんの整備で浩浩たる歯列を保つ友人の例をみれば、いよいよその効果も疑わしい。

まじめに考えると、大事なのは回数ではなくて、上手さである。お前のやり方ではいくら治療しても間に合わないと業を煮やした医師から指示があるのか、通院をはじめるたびに歯科助手からブラッシングの指導を受ける。銀歯だらけの口を手鏡に映しながら、お姉さんの号令にしたがって上下左右に歯ブラシを動かしていく。うまくできない劣等生とそれを支えるやさしい教師という関係が重なって、段々みじめな気持ちがしてくる。じぶんでは歯と歯のあいだ、歯と歯茎のあいだを意識してブラシを当てているのに、専門家からすれば磨いていないのと同じらしい。致命的に歯磨きが下手くそなのだ。

歯ぎしりもひどい。このまま磨耗がつづけば歯の先端は欠け、ゆくゆく口のなかに何も残らないと脅されている。怖くなってマウスピースをはめて寝ていたが、面倒になってやめてしまった。なにかを噛んだまま寝る違和感にはすぐ慣れる。慣れないのは翌朝、マウスピースの樹脂に乾いた唾液の混じった妙な風味で起きることである。「俺もマウスピースを買わされそうになった。お前は医者に騙されている」と疑り深い友人は言う。しかし、峻険な山のシルエットそのままの歯の異形、欠けてガタガタになった稜線とひときわ高く突いた頂のセットを見れば、それが歯ぎしりで出来上がったことがすぐにわかる。

歯については不幸ばかりだ。幼稚園に入ってすぐ、すべり台から転げ落ちて前歯を折った。小学生にあがると今度は、家の鍵のついたゴムを口にくわえて遊んでいて永久歯になった同じ前歯を割った。今は差し歯である。これが歯ぎしりのせいで時々落下する。昔はマスクをして顔を隠したが、今はつかのま歯抜けになった自分の情けない姿でいるのも悪くないと思ってあえて何もつけないようにしている。

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