おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

人間、この認識危うきものについて

「間違えた」と母が騒いでいる。
話を聞くと、銀行ATMで操作を誤り、ぜんぜん違う口座に15万円を入金してしまったらしい。勝手に使ったら犯罪だ、警察につき出してやると息巻いている。でも間違ったものは仕方ない、返ってくるのを待つしかないと言って母をなだめる。

人間の認識は危ういものである。
先日書店で小便がしたくなったのでトイレに入った。個室がふたつあって、小便器はない。不思議に思ったが、小ぢんまりした便所なので仕方がない。個室のとびらに手をかけたとき、ある疑念が頭をよぎった。ここは女子トイレではないのか。まさかとは思いつつ、辺りを見回して女性的ななにかを示す証拠を探した。うす汚れたグレータイルの床、なんのデザイン意匠もない単色クリームの壁紙、白いベニヤ張りの個室とびらはあらあらしく四隅がはげて茶色の地肌が露出している。洗面台には口紅の忘れ物もなければ、くずかごに化粧を拭いたちり紙の一片も見当たらない。唯一ひっかかるのは、コンビニの共用トイレと違って、はっきりと入口が男女別に設けてあったことだ。果たして小便器のない男子トイレなどあるだろうか。洗面鏡に映るじぶんの姿がだんだんと変質者に見えてきた。おそるおそる入口のドアを押しておもての性別表記を確かめる。黒色の人型シルエットがでていた。なんだ、男子便所だったのか。胸をなでおろした。そのシルエットがスカートを穿いているのに気がついて血の気が引くまでの、つかの間の安心であった。
あわてて入り直した男子トイレで用を足しながら、じぶんという人間が信じられなくなっていた。私はいままでトイレのおもてに掲げてあるプレートのかたちを見ずに、色だけで男女を判別して生きてきたのだ。もしあのとき個室からぱっと女が出てきて鉢合わせをしていたら、と思うと背筋に冷たいものが走る。「男子トイレとまちがえた」というのがいくら真実であっても、取調室ではもっとも下手な言い訳にしかならない。ほんとうの変態でも、これよりうまい言い逃れを思いつくだろう。うっかり女子トイレに入って逮捕される息子と、その保釈金の振込みに失敗する母というパラレルワールドはすぐそこにある。

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