おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

ふだんなら絶対手にしない短歌雑誌をよむ

毎回詩をテーマに記事を書かれるブロガーさんがいて、読者になっている。詩をテーマにしているというと、「わたしセンスあるでしょ」風でいて、実はからっぽの、なんの詩境も感じさせないポエムをひたすらべた打ちにするブログを思い浮かべるが、そのブログだけはちがう。創作というより、詩全般の動向をうかがうようなかたちで詩集や短歌雑誌を紹介することに力点を置いているのである。

はっきりいって私は詩のことがわからない。中学の国語の授業で俳句をつくれという宿題がだされて、一日中思案したのちに「秋風が草木に触れて見えるよう」の一句を上梓し「意味がわからん」と一蹴されたことがある。子役をしていた端整な顔立ちのFちゃんは、私よりつまらない俳句をあげて、男の先生から「良し」の評価を受けていた。「才よりも句の良し悪しは性と整」というのを目の当たりにしてから、もう詩なんて得体の知れない世界と関わりを持たないぞと思った。詩情解する感性欠いて、詩作愉しむ心育たずのまま、この歳まで駆け抜けてきたわけだが、それでもわからないなりに例のブログを読み重ねるうちに、なんとなく詩に興味がでてきた。

ふだんなら絶対手にしない短歌雑誌を今日書店で読んできた。内容いかんよりも、まず雑誌の構成におどろいた。余白である。雑誌1ページを贅沢につかって、短歌がぼそぼそと4,5首書いてあるのみである。私たちがふつう読む雑誌というのは、スペースの許す限りところ狭しと情報を詰め込んであるから、余白というものをあまり感じない。ところが詩の雑誌は、その一篇を読者に伝えることに全神経を集中するから、ことば以外の夾雑物を極力排しているのである。これが気持ち良い。情報過多の紙面にカウンターパンチを浴びせる痛快さである。日々忙しくしてこころ落ち着く暇のないときに、ぱっと開けて白い紙のうえに詩の一篇を読む。なんて生活があれば、いかにも優雅じゃないか。

肝心の短歌について言えば、これも衝撃的だった。「スターバックスコーヒー」だとか「スマホ」だとかいう字句が平然と歌に詠まれる。詩なんかに精をだす連中はどうせ保守的な年寄りばかりで、古臭いことばをつかって現代風俗をけしからんと叩くだけの遊戯でしかない、とたかをくくっていたのだが、実状はもっと攻めの姿勢であって、むしろ十数文字のうちに現代社会の怒涛のうねりを飲み込まんとする若々しいパワーすら感じさせるのである。ことばの選び方、筆のはこび方、日常生活の極点をえぐり出す視点のとり方など、ものを書くうえで学べることがとても多かった。今更ながらこれほど豊かな詩の世界を勝手な理由で避けていた自分に腹を立てている。

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