筒井康隆『狂気の沙汰も金次第』に学ぶエッセイのヒント

1973年に夕刊フジに連載された筒井康隆のエッセイ『狂気の沙汰も金次第』から随筆を書くヒントを学びたい。118回にわたってほぼ毎日、原稿用紙3枚半(1,400字)の文章を、しかも売りものの水準で世に放ちつづけるという仕事はちょっとフツーでない。もちろん、それは圧倒的筆力をほこる小説家にしても異常事態のようで、筒井は最終回「終末」のなかでこう述懐している。

「えらいことだ。これは長距離のマラソンだ」そう悟ったのが三十回目あたりでした。それから息を切らしながら、えんえんと毎日書いてきました。後半、何を書こうかと考えることに四、五時間を費やすようになりました。……書くことがなくなり、他人のネタを使い、昔一、二枚で書いたものを水増ししたり、身内の恥までさらけ出し、四苦八苦してきました。今はマルハダカになった気持です。

のん気な読者は舞台うらの実情にびっくりする。この作家が毎回なんのつながりもないテーマ(パチンコ、電話、かぼちゃ、保険、童話…)を跳梁してようようと長広舌をふるうすがたに、まさか事前四、五時間の苦闘があるとは思いもしないのだ。たしかによくよく中身をあらためれば「書くことがないので、ぼくが今死んだら、香奠(こうでん)がどれくらい集まるか、計算してみることにする。」という一文で始まるエッセイ「香奠」がある。はじめはギャグにしか思えないこの冒頭文も、最終回を読んでから見直すと本当らしく聞こえるが、詮索はするだけ野暮である。

筒井の連載が終わった翌年、同紙上で井上ひさしがエッセイ「巷談辞典」の連載をはじめるが、こちらは筒井のものよりすこし落ちる。「膣内安全(家内安全)」だとか「法政大学は包茎大学」とかいう言葉あそびは、たしかにくだらなくて笑いを誘うが、これを十数行にわたってえんえんと続けられると、さすがにうんざりしてくる上に、たった数文字で改行をくりかえして原稿のスペースを稼ぎたいだけなのかと嫌に疑ってしまう。言葉あそびを抑えたほかのエッセイでは、思わずハッとさせられるような日本語の美しい言い回しがしてあったり、わずか数ページでひとつの物語を読んだ気にさせる構成がしてあったりする分、余計にしゃれの羅列回が楽しくないのだ。連載の締めくくりで井上ひさしは言う。「一日一篇ずつ、おもしろい、そして気のきいた読物を提供するという作業はわたしにはすこし荷が重すぎました。」

筒井康隆井上ひさし、両者随筆の成否をわけたのは、どこに視点をとるかの違いだ。実のところ『狂気の沙汰も金次第』は大半が回顧録である。じぶんが過去に体験した、あるいは人から聞いたおもしろ話が中心で、時事への反応や思弁的に「おもしろ」を追求するといったことをほとんどしない。この比率は、井上ひさしのエッセイでは逆になる。小説家のエッセイに読者がなにを期待するかといえば、脳科学者を別にして、作家の頭のはたらきや着想の方法より、作家の明るみにでない過去や彼の人格を形づくることになった体験といったものの方だろう。これに応えるのは、浴槽の排水口に睾丸がふたつとも吸いとられた事件を語る筒井康隆のほうである。さらに4ヵ月の長距離マラソン、16万文字を走り切るにも、紙の上であたらしい「おもしろ」をこねくりまわして作るより、過去の既製品を今風に語りなおすほうが労力すくなく、読者の得ること多しで理にかなっている。

「つまらないことをわずかしか考えていないのに、はるかに深遠なことをはるかに多量に思索したかのように見せようとして懸命である。」ショウペンハウエルという哲学者は、そういって虚飾の文体を批判した*。これは、わたしたちの日記、エッセイにありがちな態度である。日常生活のほんのささいな場面から、人生の奥義や真理みたいなものをちょろっと引きだしてみせて、ほらどうですかとやるわけである。じぶんの精神はほかの者とちがって少し高級なのだ、というもっとも平凡で低級な主張のために、どんどん内容は思弁的に観念的に抽象的に一般的になってつまらなくなる。哲学や宗教で飯を喰うのでなし、スピリチュアリストや自己啓発のモチベーターとして明日の炊飯器を開くのでない人が、むりに考えるふりをして一体なにになる。素直にファクトを書きとめるだけでも、それだけに立派な読みものになるということが、馬鹿者にみられる恐怖でみえなくなってしまっている。たいていの人は、未来を見、はるか頭上にある抽象の雲にむけて寸たらずの腕を伸ばす。振り返って足もとの具体の砂をつかみあげれば簡単になにかが書けるというのに。

 

* ショウペンハウエル『読書について 他二篇』(岩波文庫

狂気の沙汰も金次第 (新潮文庫)

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