おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

「断捨離」の本がゴミになる

書店でこんな会話を聞いた。
「断捨離の本、買おうかしら」
「やめとき、その本がゴミになるんやから」
うまいこと言うおばさんだなと感心した。結局、買おうと言いだしたおばさんは、本を手にすることなく行ってしまった。

 

ものを捨てるのが流行っている。ブログにも、今日はこんなものを捨てましたと画像つきの記事を更新するものがあったり、「ミニマリスト」とか「シンプルライフ」の名のもとに、日々いかにモノの呪縛から離れて生きるかの生活実践をつづるものがあったりして、「断捨離」の思想に人びとが共鳴するありさまをつぶさに見ることができる。

私はものが捨てられない。こうして文章を書いている机にいま、記事と無関係の雑誌が1冊、本が17冊ある。作業スペースの机上でこれだから、ほかの書棚、押し入れの惨状は察してもらいたい。家にあがった友人は、フローリングの茶色が見えない床を見て、足を踏み入れぬまま「また来る」と吐きすて逃げるように帰っていった。後で聞けば、あのとき私を頭のおかしい人間だと思ったという。部屋の清掃状態ひとつでひとの人格を測るとは失礼な奴である。ゴミ屋敷に住む人がある種の病いを抱えていることが多いと本で読んだことがあるが、ただ部屋を片づけないだけで病気や異常と結び付けられては困る。

財やサービスを市場で手に入れる商品経済の社会を生きていれば、ものが増えていくことの方がむしろ正常なのだ。それに抗ってむりに清貧を装ったり、支配的な価値観からのがれて自由を得たと錯覚することのほうがよっぽど不健康だ。第一、社会一般にものの氾濫があってはじめて「断捨離」が美徳として成立するのだから、当の「断捨離」こそが、最もものに依存している精神ではないか。冒頭のおばさんは、それが自己欺瞞の営みであることをすぐに喝破していた。

「ものを捨てるようになってから、新しくなにかを買うときによく吟味するようになったんです」
収納・片づけコーディネーターという人の著書にそんなインタビューが載っていた。おもしろいなと思うのは、大量の持ちものとの関係を断ち切ることが、あらたな消費の局面を切り開いていることだ。いままでの量の消費を反省することで、商品の質への感度が高まっている。もののない豊かな生活は、質的にきわめて豊かな少数の商品によって支えられることになる。「断捨離」のムーブメントは要するに、従来の量的志向にとらわれた時代遅れの消費者が、マス生産の粗悪品にたいする新しい衛生観念を自身に芽生えさせることで、高度な質的消費に適応していくプロセスなのである。

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