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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

文章がうまくなるには

いい文章が書きたい。日記、宿題の読書感想文、大問5の小論文、クラスの冴えない男子に宛てる丸文字のドッキリレター、有力者の邸宅をかこむ外壁にごまんと張りつける怪文書、駅前ロータリーにバラまく宇宙陰謀の告発文。なにを書くにせよ、すこしでも上手いものを書いて注目を浴びたい、自己満足を得たい。そんな俗物の書き手なら一度は次のような問いにぶち当たる。「どうやったらいいものが書けるのか?そもそもいい文章って、なんだ?」

この巨岩を自力で転がしてゆけるほど頭の力があれば、そもそも苦労しない。そこで私たちは、外部の仕事にたよる。おもしろいことに、書店にひしめく大量の文章指南書は、たいてい自身が冒頭で「さいきん文章指南書が多い」といって嘆いてみせる。書き手としては、自分の本がとなりの類似商品と比べていかに優れているのかをわざわざ読者にプレゼンする手間がかかって面倒なのだ。その意味で、文章指南書の最大の読みどころは、作者連中が持てる全技量のさいごの一滴までをしぼり尽くして読者をレジに並ばせようとする説得の場面にあり、その後につづく「わかりやすく書こう」「読者の視点にたって」などの具体的な説教はことごとくオマケにすぎない。

谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫はそれぞれ『文章読本』を出した。「文章とは斯くあるべし」と偉そうに語ったのは、いちおう私たちの国語の模範として、教科書に名と作品の載るような小説家であった。ところが今日の文章論の著者をみると、まったく誰だかわからない。名は知れてあっても、卓抜な文章家として有名なわけではない。かつての小説家の仕事は、いまでは小論文のトレーナー、定年した新聞記者、研究に飽きた大学教授によって引き継がれている。文章術の語り手が芸術家から実務家にかわったのは、現代の文章が美的であるより実用的であることによって評価されることの証左である。書き手の目的に一直線に寄与する、明快な論理を備えたクリアな文章。これが当世の美文の条件にほかならない。

文章本のアドバイスをくそまじめに守ったブログ記事をよく読む。たいてい、わかりが良すぎてつまらない。「わかりやすく書こう」という気がわざとらしく見え透くものは読んでいて白ける。教則本のルールを忠実になぞって点数を稼ごうとする態度もくだらない。外部の採点基準に合わせていくら努力を重ねても結局は100点しかとれないという事実に早々気付くべきだ。名文の条件は人為的なスケールでつかまらない。それは文章指南書の作者がみずから証明するところだ。「こうしろ」「ああしろ」とじぶんで掲げたルールの自縄自縛に苦しみ、窒息していく文面をみよ。名文の契機は、もっと無意味に、もっと無目的に文章がおどる地平にしかうまれない。

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