ハイミとゼンミ

 

ハンガリー王国にハイミとゼンミという姉妹がいた。姉のハイミは、活発な社交家で、大人をハッとさせるジョークをたびたび口にした。妹のゼンミは、静けさと暗がりを好み、人と交わらず、部屋にこもってもの思いに沈んだ。人びとは性格のちがいを不思議に思った。父親が別なのだと噂する悪い人もいた。一方、谷崎潤一郎は、漱石の文章を調べて、その魅力が俳味と禅味にあると語った。俳味とは滑稽感、おもしろみのこと。禅味は、寺の板張りに腰かけて、擦れあうこのはに耳をすませるような、俗世間と距離をとる態度、浮世ばなれのきっぷである。

ユーモア(humour)がもとは人間の体液を指したように、笑いのツボ、ギャグセンスは本人の気質由来のもので、身につけようにもすべがない。俳味の獲得はあきらめる。なら禅味も同じかというと、これは違う。父親が別だからである。

禅は、サンスクリット語dyānaの音訳で、意味は「静かに考える」。これなら得意だ。パチンコ屋で財布にのこり1000円となったら、続行するかやめて帰るか静かに考える。女から「遅れてる」「まだ来ない」と言われたら、静かに考えるものだ。口から鉄の腐ったようなにおいをただよわせて、つまらない人生訓を聞かせる上司の顔へ、想像で振りかぶったトンカチを思いきり叩きつけるところを、静かに考えるものである。現金輸送車を見ると、静かに考えるものである。

僕の禅は現世の利益、肉体の欲求とべったりだが、原義には忠実だ。これで少なくとも漱石の4分の1、つまり250円には及んでいる。あとは座学でこまごまとした禅の知識をつめ込むだけだ。その前に昼食といこう。

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神戸屋のアーモンドフランスを食べる。口にする前に、何となくパンの継ぎ目を開いてみた。なかに、バリウムを飲んだ日の翌日に便器の底に沈んでいるような真っ白な一本糞が横たわっていて、表面にぶつぶつと肌色のアーモンドチップが付着している。あからさまなチョコレートクリームを見るより、妙にリアルで、食欲が失せた。

  • ウンコが汚いと思うのも、乞食に近づくまいと思うのも、学んだ分別だ。古い歌に「幼子の次第しだいに智慧づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」というのがあるが、いわゆる確立されてくる自己やそれを支える知識・分別・価値判断などを、禅は根こそぎ否定するのである。
    玄侑宗久『禅的生活』

 

菓子パンをウンコに似ていると思って避けているようでは、禅味の会得はまだまだ遠いようである。

 

 

ミチオ君、東京をいく

 

大阪人として「なにが東京」と思う反面、あこがれもある。テレビ雑誌で見る場所、聞く地名のほとんどは都内にある。拠点が東京にあるから当然である。

大阪といっても、映画館ひとつない片田舎に住む僕は、六本木と聞けば「あの…」、渋谷と見ると「かの…」と名に押され、街を歩けば、両肩に迫るガラス張りのデザインビルの連なりに圧倒される。肝試しで墓地をいく少年のように「こんなの大したことない」と言わずには交差点のひとつも渡れない。

 

あの、神保町に来た。

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「神保町 本屋 おすすめ」でリストアップした書店をめぐるが、とにかく暑い。道は黒白の二色にわかれ、下水の臭気を含んだ蒸気がむらむらと路面から吹き上げる。その中、店前に出たワゴン内の、何百という本の背表紙の細かい字を追っていると、頭がクラクラする。

暑さが神経活動の大敵であることは、赤道下の住民が腹をだして昼寝ばかりしているのをみれば分かることだ。熱さはものを焼き、暑さはひとを自棄にする。実力テストは夏休み明け、クーラーのない部屋に40人を詰めて行われたが、僕はあまりの暑さにやる気をなくし、名前を書き込んだあとは、垂れる汗のしずくをすべて解答用紙で受けとめて、これがおれの答えだとばかりにフヤけた紙を提出してやった。ペンも持たず、じっと紙上に伏せたままでいるのを、見回りの教師が見たら変だと思ったろうが、先生のほうもパイプ椅子から動かず、目をつむって扇子をあおぐだけであった。

 

 

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買ったのは2冊だけだ。山田風太郎『半身棺桶』は、出発前に新大阪駅のリブロで、泡坂妻夫『湖底のまつり』は帰る直前、東京駅の三省堂で買った。結局、神保町では1冊も買わなかったのである。ほんものの稀覯本はガラスケースの向こうへしまい、一般流通の、いわゆる古本は、持ち逃げされても大して痛かないといった様子で野ざらしにしてある。その構図が気に食わなかった。店前で本をいじっていると、残飯をつつくみじめなごみあさりになった気がする。 

 

お土産を開けると、

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自分がどこへ行ったのかわからなくなった。