おならっぷばーん

真夜中の異臭さわぎ

文章する旅

 

言葉に責任を持つ。園児から社会人まで人の信用を得るために必要な態度である。僕の幼稚園に「ゲームソフト欲しい人この指とまれ~!」と連日キャンペーンを張り、譲りもしないソフトをエサに、園児の心をつかんで園内一の人気者に上りつめた男児がいた。調子のいい嘘に大人も見事にだまされて、「買ったばかりのゲームをあげるなんてお母さんが悲しみますよ」と家計を心配する女性教諭まで現れる。こいつはたちの悪い詐欺師だといち早く見抜いて、騒ぎを横目にカントの『純粋理性批判』を読んでいたのが僕である。ほんとうは、ほかの園児に負けじと、誰よりも熱心に彼の指を追いかけていたのだが。男はのちに嘘つきだと評判がひろまり、小中高の学園生活を孤独のうちに終えた、というなら道徳の教材だ。彼の人気はますます高まった。組体操のフィナーレである。ひたいに汗し歯をくいしばって重みに耐える土台の馬の冴えない連中の背をぐっと踏みつけて、大ピラミッドの頂点に君臨し、両手をひろげて、観衆の拍手を浴びた。他校から見物人が出るような学校一の美女をものにしたのも彼である。(その頃、僕は図書館のすみで原子爆弾の作り方を知るために本を読んでいた。学校一帯を原っぱにしたかったのである。)彼は大学に進み教師になった。きっと人気の先生だろう。僕が言いたいのは、先生と呼ばれる人間が信用ならないこと。そして自分の発言に責任を持たずとも社会で認められる存在にはなれるということだ。前回の記事で「週末、旅行してきます」と言ったが、旅の報告の代わりに、育ててもいないアサガオの観察日記をつけ始めても、信用はいや増すばかりである。

でも旅の記録を書くのだ。読者のために? ちがう。正確に見積もってたった4人の物好きのために、どうして火鉢を素手で掴むような思いをして、モニタに向かい、生活をさらし、気の利いたセリフをしぼり出さねばならんのか。みうらじゅんの「無駄な努力って一番面白い。いいじゃん、そういう努力してる人って。なにか必死でやっててさ、『水の泡』っていうのがいいんだよ」という言葉は好きだが、風俗通いの妻帯者が言うとおり、好きとやるでは話がべつだ。では表現欲を満たすために? それもちがう。僕は街の似顔絵師と同じようにアーティストを気取ってはいるが、ほんものの芸術家ではない。二枚目の演出に長けた醜男と、素のままで魅了するイケメンとのあいだに、目で見てわかる遺伝子レベルの隔絶があるように、両者は全くの別物だ。「芸術家が特殊な人間なのではなく、すべての人間が特殊な芸術家なのだ」(A・K・クマラスワミ)という言葉には感動的な響きがある。でも騙されちゃいけない。「AV女優が特殊な人間なのではなく、すべての人間が特殊なAV女優なのだ」と言い換えれば、この文章がもつ構造的な危うさに気付くだろう。おれもお金のため仕事のため、つらい局面で気持ち良いふりをしたり、感情をころして演技したことがあったなあ、と自ら状況を整理して特殊なAV女優に成りきっても、地方のDVDショップでサイン会は開けない。問題にすべきは、特殊でなくて一般のAV女優である。さらに言うと、記事を書く動機の話だったはずだ。

旅先でシャーペンを買った。正確には買ってもらった。彼女にである。「これでいっぱい勉強するね」と中学生が親にするように礼をしたら、「それよりもっとお金稼いでよ」と笑わぬ目で笑う。バッグに入れたままうっかり持ってきてしまったと語り見せた給与明細には、僕のバイト月収3ヵ月分の金額が記されていた。働く気のない僕に発破をかけるべく、周到にうっかりを準備してきたのだろう。「さりげなく明細を見せて、男のプライドを刺激してみよう」なんて書き込みを読んだのかもしれない。この技にかかるのは、プライドのある男だけだ。学生時代に参加した就職相談会で、50代の中小企業の社長と、女のひもになることがいかに難しいか語り合ったことがある。長い討論のすえ、ひもになれなかった男だけが働くのだ、という結論を得た。そんな男に、うっかり収入の差を見せることは、巨人がこびとに向かって背の高さを自慢するようなもの。ずる賢いこびとは、こいつの肩に乗って移動すれば楽だと思って、耳もとで恥じらいもなく愛をささやく。ブログを書くのは、買ってもらった筆記用具を試したいから。旅の報告に気乗りしないのは、それが彼女との旅行であるからだ。いったい誰が、カップルの、電車の遅延すら起こらない平和な旅を見たい? Web上で人の生活を覗くことを唯一の趣味とする僕でさえ、そんな報告はスルーする。空港でサイフを落とした、飛行機に乗り遅れた、となりの客が恋人の浮気相手だった、みたいな話を聞きたいのである。ガスの閉栓を20回確認せねば家を出られない未亡人のように、僕は10歩動くたびケータイ、サイフ、家の鍵の所在を確かめないと次の一歩が踏み出せないし、出発時刻の2時間前には待合室に座っていないと落ち着かず、彼女は彼女で浮気相手をつくれるような美貌ではないし。平凡な旅行のなにを書けばいいのか分からず、すでに2000字の足踏みをしている。

代官山の蔦屋書店で本を買い、ブックカバーを東京みやげにしようと思った。が、セルフレジの下で、カバーが取り放題になっているのを見てやめた。神聖さとは隠すことである、と前に伊勢神宮を訪れたときに思った。さい銭を投げる場所から本殿が見えないように、白いカーテンを引いてあるのだ。それが風になびいてゆるやかな波型に奥の景色を切りとるたび、あやしい気持ちになった。一枚の頼りない布きれが、世界を二つに分かっている。女子のパンツと同じである。当初はものの大切さ、重大さ、偉大さゆえに奥へ奥へと隠したものが、いつしかそのものが隠されることによって聖性が生じるようになった。人は自らの素性を隠して、知ってみれば何のことはない、ただの一般人であるところの自分をミステリアスに彩り、人物の魅力を作る。このブログが回り道ばかりして、いつまでも本題に達しないのは、書き手が同じ効果を狙っているからだ。客が入れないカウンターの裏から出てくるカバーが、いまや誰の手にも届くものとなれば、駅前のタウンワークで本を巻くのと変わらない。店でどんな本を手にしても、Amazonの中古価格が気になって仕方がなかった。「あれ、本好きじゃなかったの?」と訊く彼女に、「好きだけど、定価を払ってまで読む価値のある本なんて、いまどき万に一つだからね」と言うと、ならどうして来たのかと不思議そうな顔をしていた。

来た理由はある。近くのレストランでランチをするのだ。いつもならデパートの惣菜、コンビニの弁当、チェーン店のカレーで済ませる食事を豪勢にいく。900円のジンジャーエールを飲み、2000円のハンバーガーを食べた。これが2000円か、と思うとまるで味がしない。モゾモゾする食感だけが舌のうえを通り過ぎていく。ジンジャーエールは強い酒のように一口ふくむとめまいがした。「どうしたの、全然しゃべんないね」と彼女が言う。そりゃそうだ。ガラス張りになった店の前を、ファッション雑誌の切り抜きのような人たちが胸を張り気取りすまして右から左、流行など追ってたまるかと斜に構えた人たちが、またひとつネガになった流行を追いかけ回して左から右へと、彼女の頭を通ってガラスの端に消えていく光景を、水族館の魚になった気持ちで眺めていた。通行人はみんな自信に満ちている。なぜ自信をもって生きられるのか。堂々と歩く姿こそが、実は自信のなさの表れなのかもしれない。考えだしたらキリのない、この世界の存在の謎には首を突っ込まずにいるのが実務者としての賢い生き方だ。僕は自信を持って生きられないことに関してだけは絶対の自信がある。良くも悪くも、これを自分の持ち味として世界と対峙するしかない。芽キャベツそっくりの見たこともないフライドポテトを食べたら、じゃがいものペーストにだ液をぜんぶ吸いとられて、沼でおぼれた気がした。ジンジャーエールをうがい薬にして、のど奥、歯ぐきにへばりついたポテトをグチュグチュと掻きとり、胃に流し込む。冷や汗をかきながら思った。僕は100円マックの分際だ。シートのすき間に落ちたゴミ、溜まった食べカスから、油の腐ったにおいのするソファが、僕の居場所だ。貧すれば鈍すとは、金持ちが自己弁護ために作ったフレーズで、真相は逆である。こんなところで優雅にコーヒーなぞ啜っていては感性が曇る。セレブと呼ばれる人たちに、かつて一人でも趣味のいい人間がいただろうか? 伝票の合計金額を一の位から数えるうちに気が遠くなり、目覚めたときには店の前で破産者になっていた。これじゃコンドームも買えやしない。

ホテルに戻る途中、コンビニで彼女が怒った。
「どうして持って来なかったの?」
「遊園地だ。遊園地のウォータースライダーは水をかぶる。それが装置の設計だ。ずぶ濡れになるスリルを楽しむ。そこへ自ら乗り込んで、濡れたくない、ポンチョを用意しろと騒いだあげく、その代金まで遊園地に払えと言うのではあんまりだ。ポンチョは乗客が負担すべきだし、実際にそうなっている」
とまくしたて、レジに並ぶ彼女の手にコンドームの箱を持たせた。

たちの悪い詐欺師は、僕のほうかもしれない。

 

旅する文章

 

旅で困るのは荷造りだ。初日はこれ次の日はこれ予備にあれも持って行きたいが欲張るとかさも張る。季節にあい、テーマに即し、移動に叶い、土地の風景に沿うような完ぺきな装備で家を出たい。服? ちがう、本のはなしだ。着替えより本の選別に時間がかかる。ほんとうの読書好きは本に触れたが最後、一読巻を措くあたわずして、read from cover to coverにして、「針を打ったそばから頭のなかがキーンと零下52度まで冷えて、脳細胞が氷みたいに透明になって、すっきりして、みるみるもやが晴れて、うおーおれは神だーって気がして、立ち小便のターッと壁を走る音に宇宙の旋律を感じて、見るもの嗅ぐもの触れるものみんなみんな美しくて、おれはこの世界の住人になるんだって思った」りして、旅のことなど忘れて、ついに出発しないものである。遅れたらやばいと思って早め早めに駅、空港に着いてしまう僕なんかはまだ愛好家として素人から皮一枚へだてた初級者、待ち時間にふらっと寄った書店から出られず、列車、飛行機のひとつやふたつ乗り損ねて、はじめてまともな本好きと呼べる。

読書会に行くと、上級者は「1年に300冊読みました」「蔵書がついに1万冊を超えまして」とむやみに自慢しない。どのくらい読むんですかと訊くと、静かに2本の指を立てる。
「娘2人の結婚式にどちらとも行きそびれましてね」
負けじと横から3本指の手が入る。
「わたしは本がもとで自己破産が3回」
おお、と感嘆の声を漏らす一同。すると場内後方から手が挙がる。目をむき出して固まるサラリーマン、コーヒーカップを持ち上げたまま口をあんぐり開けた主婦、耳に手をあててブルブル震えだす大学生。見れば、なんと5本指だ。あいつはなにをやったのか。かたずをのむ人山にすっと切れ目を入れるように店員が割り込む。ただの注文だったのである。(僕は読書会に行かない。人付き合いのわずらわしさを嫌って家でしっぽり本を読んでいるのに、どうして人と本を読まねばならんのか。ひきこもりの道具を社交の用具にするとは、しゃもじを靴べらにするが如きふらちである。「多様な意見に触れる」をメリットに挙げる人がいるが、われわれの耳は、他人の意見を聞くために2つ用意されたのではなく、横になったままテレビを見るために進化したのだ。)

猿人と厭人のハイブリッドで動く僕が、気乗りしない社交行事にどうしても参加せねばならぬとき、護符のように持ち歩く1冊の本がある。茂木健一郎という天然パーマの高学歴タレントが書いた『セレンディピティの時代――偶然の幸運に出会う方法』である。もとは2年で休刊した男性向け雑誌『月刊KING』の連載記事で、まんがイラストの多用もあいまり、内容はすこぶる軽い。しかしその軽さが、僕の人間的うつろに共鳴する。たとえば旅の項、

人生の大切なことは、自分ではコントロールできない。これは「開放系」として機能する脳ミソを持った人間の宿命である。人間の脳の中には、常に新しい情報が入ってくる。周りから、どのようなことが飛び込んでくるか、予想などできない。旅はその「予想外」が普段よりはなはだしくなる時間帯。その意外性を楽しめなければ、そもそも旅する意味がないし、偶然の幸運との出会いも見逃してしまう。

出発前の土壇場になって湧くものぐさ、旅の途中のストレス、しんどさをはらうために繰り返し読む。人と会うのがイヤな日には、「不安や恐怖などのネガティブな感情こそが、新しいものとの出会いと結びついている」という一文を読む。自分の生き方に自信が持てなくなったときは、「表現は生き方の果実なのである。ヌルい人生からは、ヌルい表現しか出てこない。心に響く言葉の背後には、必ず、厳しくも妥協しない生き方がある」を読む。「身体を張ってこそ、どうなるかわからない未来に思い切り身を投じてこそ、世間ときちんと交わってこそ、人の心に届く言葉を吐くことができる」を読む。本来ならば、部屋の角で膝を抱えて丸くなり、自分ひとりの宇宙で四十六億年の孤独にたえながら、ありえたはずの未来をえんえんと思い描き、歯ぎしりし、内側から絶望に突き破られて死んでいくつまらない一個の生命体であるところの僕が、人と繋がりを持ち、人と繋がることを良いことだと信じていられるのは、この本あってのことだ。言い過ぎではないかと思うかもしれないが、もちろん言い過ぎである。

例によってここからが本題だ。本書に次のような一節がある。長くなるが、引用と女の髪は長いほうがいい。

賢明である女性たちの中にも、ちょっと客観性、社会性がなさすぎるんじゃないの、と思われる一群がいる。それは「おばさん」と言われる人たち。……私が考える「おばさん」の定義は、思ったことを何でも口にしてしまう人のこと。その言葉が他人にどう聞こえるかなどということには一切頓着せずに、心に浮かんだことを考えなしに何でもしゃべってしまう。私は、これを密かに「無意識の垂れ流し」と呼んでいる。

週1回、福祉施設で行うボランティアの関係で、平日9時過ぎの電車に乗る。あらかた普通のリーマンを運び終えた電車には、10時始業のパート従業員、百貨店向けにめかし込んだ奥さま、資料を読んで集会に備える宗教信者など、大阪で言うところの「おばはん」が満載である。四方から聞こえるのは、例のおしゃべりだ。それを心で「無意識の垂れ流し」と呼んであざ笑う趣味は、暖炉でふかすパイプ煙草と同じくらい乙なものだが、僕は問題を解くのに忙しい。おばさんたちは来る日も来る日もだ液涸れ、舌切れるまで話を尽くして、どうして話術が一向に上達しないのか。おばさんのなかから一流の弁舌家、演説家、噺家、ラジオDJ、テレビ司会者が飛び出さないとおかしいではないか。(これは僕たちにとっても深刻な問いだ。書いても書いても、文章がうまくならない原因がここにある。)

僕の行きついた答えは、効果である。「無意識の垂れ流し」は、意識的な絞り出しではない。相手をぎょっとさせる、はっとさせる、ぽっとさせる、すかっとさせる、にこっとさせる、じめっとさせる効果を狙っていない。話すだけ話して自分がすっきりすることだけが目的だ。彼女たちが一日万語のおしゃべりで熟達したのは、相手を喜ばせる術でなく、自分が気持ちよくなる技である。日本では古くから前者を「芸」、後者を「ひとりH」と区別してきた。

おばさんには話芸がない。僕らブロガーには文芸がないのである。伝統芸という言葉があるが、芸とは伝統のことだ。芸達者になりたいなら、歴史に学ぶ必要がある。ここに丸谷才一文章読本』の抜き書きがある。

人は好んで才能を云々したがるけれど、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならない。ある種の学者たちのやうに、せつせと名文とつきあつても書く文章がいつこう冴えないのは、文章の伝統から学び取る態度が間違つてゐるためなのである。

才能は、伝統との向き合い方に表れる。井上ひさしも「現在望み得る最上かつ最良の文書上達法とは」というエッセイのなかで次のように語った。

大切になるのは、いったいだれの文章が好きになるかということで、ここに才能や趣味の差があらわれるのだ。だからこそ日頃から自分の好みをよく知り、おのれの感受性をよく磨きながら、自分の好みに合う文章家、それも少しでもいい文章家と巡り合うことを願うしかない。

落語界の「師匠選びも芸のうち」も同じ意味である。そういえば、春風亭昇太立川談春との対談でこんなことを言っていた。

落語の「うまい」というのはすごく難しい言葉でね。……「うまい落語とは何か」と考えると「想像」がキーワードだと思う。お客さんによりクリアに想像してもらえるかどうかが、うまい下手ということだと思う。上手にしゃべることそのものが「うまい」んじゃなくてね。
『楽に生きるのも楽じゃない』

はっきり言って僕は、文章をうまく書くことにしか興味がない。健康のためなら死ねる現代人と同じく、ランプの精にうまく書けるようにしてやると言われたら、文盲になるという条件さえ平気で飲める。しかし、このうまさがくせものなのだ。うまさについて考えれば考えるほど、なにがうまいのか分からなくなってくる。

同じ春風亭昇太のことばがヒントになる。

正解は自分の中にしかたぶんない。それぞれ作・演出を任されているわけだから。だからそれぞれやってることが違って、「あの人がやってることはね―」とか言ってもしようがないんだと思う。落語って背伸びしてもカッコ悪いし、等身大の芸だよね。語りだけで構成しているものだから、つくろっては無理だし、だからすごい正直な芸能。

文章も同じだと思う。パーソナリティで勝負するっきゃない。その書き手の人間味をはぐくむものがほかならぬ旅なのだ。

旅をしない小説家なんて、縄跳びを忘れたボクサーのようなものではないか。
開高健『開口閉口

てなわけで週末、旅行してきます。

 

無賃生活の終わり

 

バイト終わりと言っても朝の9時。ブックオフに寄って帰りたいが開店は10時だ。ちょっとした時間のつぶし方がわからない。

公園のベンチで失業者みたいに鳩と話すにはまだ寒すぎる。バイク用のダウンジャケットを着たいが、高校生のときに買った10年もので、川に浸してやっと文字が浮き出る水みくじかと思うほど背の「adidas」が薄い。唐代の詩人が見れば、在地から千里をへだてた故郷に思いを重ねるだろう脆くはかない記憶のかすみである。その背を丸め、一般企業の始業時間から、手のひらのシワを数えて過ごす男がいたら、人はなにを思うか。

寝ぐせをそのまま固めたような髪型だ。衛生キャップを長時間着用していたという事情を知らない人が見たら、スーツに折り目をつけてアイロンをかけたような、自分のおかしさを隠そうとする所作それじたいが狂気を帯びている本物のキチガイに映るだろう。荷物台車に踏まれた靴は、つま先が黒ずみ潰れ、あたかも今朝、団地のゴミ置き場から拾ってきたような外観だ。子どもを遊ばせるママ連から「不審者がいる」との通報を受けてやってきた警官隊により浮浪罪で逮捕されてぶち込まれた留置所で相部屋となったスキンヘッドの男に「ベッド下にものを落としたが腕が太くて入らない新入りのおまえがとれ」と言われてかがんだすきに後ろから口をふさがれ尻を犯されて涙し相手の果てる瞬間を少しでも早めて苦痛を短くしようとのど奥でうめいて感じたふりをすることになるのは目に見えている。ベンチに座れば尻が痛む、という常識には、風が吹けば桶屋式のかくも深遠な連結が隠されているわけだ。芸術「作品は体験の浅い人にはその深さを示さない」(今道友信『美について』)と言うが、尻の穴だって同じである。

コンビニの飲食スペースで開店を待つ。先月のスタバ以来、実に12日ぶりに金を使った。ずっと小銭に触れないでいたから、どの色のどの大きさのコインが何円なのか忘れてしまい、1枚ずつレジに置いて数字を確かめねばならず、後ろから舌打ちの鳴ること雨に振られるトタン屋根のごとくであった。iPhone歩数計がつねに3ケタを超えないひきこもりの僕が、どうしてお金までひきこもらせているのかと言うと、預金残高が同じく4ケタに満たないからである。荀子が見た人間の本性「貧なるは富まんと願い、賤なるは貴ならんと願い」の通り、いやしくも人間として生を受けた僕もバイトして金を稼いでいるが、給料日までまだ半月もある。回りくどい言い方をしたが、要するに使う金がないのである。「これは知覚される対象なくして、知覚する主体が独立に存在するか、という主観と客観の哲学的考察に即座に結びつきますね」と主任にかけあったが、くちびるを持ち上げてうす紫の歯茎を見せるだけで、給料の前借りはできなかった。今ひとつの理由は、引き算ができるようになったことだ。パチスロで1日に4万円負けても金が減ったと思わず、翌日同じ店で財布を開いて中身がないことに驚いたことがある。今のバイトも、面接で課された計算問題の引き算ができなかったので、担当者が席を外したすきに電卓アプリで答えを出した。戻った社員が「やけに早いですね」と言うので、「岡本太郎も言ったじゃないですか。『人生は積み重ねだと思っているようだが、逆に、積みへらすべきだ』と。つまり僕は引き算のほうが得意なんです」と言い返す。30歳目前にしてフリーターをしている僕の人生の和はゼロだけどね、と僕が言うので僕は、引き算の答えは「差」だから、この場合、僕の人生はもう他人と比較にならないほど大差がついてしまったと嘆くのが正解だよ、と教えてあげた。なにか質問はあるかと聞く担当者に、悲しい気持ちがどこからわくのか尋ねたかった。

開店したブックオフで知らない番号の電話を受ける。
「××さんですか?」
男の第一声は地方なまりで聞き取れない。僕の本名が佐藤なら斎藤くらいを突いていたので反射的に「はい」と答えた。勤務シフトにも同じように名前が誤って記載されていることを考えると、いかにも起こりそうな間違いだ。
「連絡先のメールアドレスは登録しましたよね。天気予報は届きました?」
先週のバイト終わりに登録した。でも天気予報は届かない。
「おっかしいなあ。届いてると思うんだけどなあ」
と困る男。しかし僕とこれだけ馴れ馴れしく口をきく人間が職場にいただろうか。だれとも決して打ち解けない自分の対人スキルをよく反省すべきである。
「まあいいや。あのね、今度の会場は」
と飲み会の案内を受けたとき、はじめて間違い電話だと気がついた。名前の類似、メールアドレスの登録とその時期の符合が、偶然というには妙に一致していて気味が悪い。この会話はなんだったんだ、と相手も電話口で首をかしげたはずである。昼過ぎ、同じ番号からまた着信があったので、今度は天気予報も届いたし、飲み会にも行くと言っておいた。

 

買った本
井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫.
井上靖『猟銃・闘牛』新潮文庫.
大槻ケンヂ『神菜、頭をよくしてあげよう』角川文庫.
河合雅雄『ふしぎの博物誌』中公新書.
北杜夫『船乗りクプクプの冒険』集英社文庫.
___『さびしい王様』新潮文庫.
___『父っちゃんは大変人』文春文庫.
___『大結婚詐欺師』角川書店.
諏訪春雄『日本の幽霊』岩波新書.