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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

万引きの報い

 

スーパーの早朝バイトを続けている。働いてよかったと思うのは「スーパーブロガー」を名乗れるようになったことだ。ブログ運営に悩む人は、始めるといい。

バックヤードに商品がむき出しで置いてある。退勤してそばを通るとき、台車に積まれた缶コーヒー、ワゴンに並ぶチョコレートのパックが輝いて見える。いや、ほんとうに発光しているのだ。かぐや姫のおじいさんは、竹林で光る竹を見つけた。競馬の予想師は、勝ち馬が光って見えたとよく口走る。難関校合格者の語りによれば「正解の選択肢が光った」。なるほど、勤務10日足らずにして、品出しするべき商品がひと目でわかるベテランの域に達したらしい。鼻高々で近づいたら、何のことはない、頭上の蛍光灯が反射していただけである。灯火もまばらな節電下の倉庫で、商品は色を失う。欲望をかきたてるパッケージのけばけばしい化粧も、この暗さでは無力だ。闇夜に並んで契約を待つ姿はまるで客のとれない売春婦の列を見るようである。

「商品が光った」とは万引き犯の言い訳だ。仕事終わりの疲労がコーヒーを、空腹がチョコレートを輝かせる。僕が彼らと違うのは、頭のすみずみまでネガティブ思考が行き渡っている点だ。バレなければ得をするという期待より、誰かに見られたらヤバいという不安の配分が多いのである。事務所の奥にある未使用の備品倉庫、ここは通称「懲戒室」で呼ばれる。ウレタンスポンジの飛び出したパイプ椅子に、ビニール紐で両手両足をぐるぐる巻きにされた僕は、必死の弁解を試みる。

「僕はなにもしてないぞ」
「じゃあこれはなによ」
「そうよ」
「どう言い訳するつもり?」
ひざ丈の紺のスカートに、紺のチェックベスト、うすい水色のブラウスをひじ下で折り返した総務部のOL3人が、缶コーヒーとチョコを指さして問う。
「あなたのポケットに入っていたのよ」
「そうよ」
「正直に言ったらどうなの」
会社支給の使い捨てマスクで顔を隠す。鼻と重なるところで針金を折らず、ピンと張ったまま上まで引きあげた様子が、いかにも日本人らしいなかびくの顔つきを思わせる。目元のメイク、眉毛のかたちは示し合わせたように異同なく、うしろで縛った茶髪にいたっては白髪染めの染料まで同じだと言いそうだ。

「どうして黙ってるの」
「そうよ」
「あなたが盗ったんでしょ」
「盗ってない。在庫の整理中に、商品を置くところがなかったから、一時的にポケットにしまっただけだ。それをうっかり忘れて持ってきてしまった」
「私たちがいったい何人の万引き犯を相手にしてきたと思ってんの」
「3000人よ」
「あなたと同じ言い逃れを思いついた人間はほかに2000人いるわ」
そう言って近づいてくる。僕はヒールの音が苦手だ。昼間の路上では、女でござい女が通る、と自分の存在価値を知らせる警笛を吹くように、夜の散歩道では、背後からしのび寄り、死を秒読みする悪魔の指折りのように。6本のヒールが床を打つココツコツコツという音には、その両方のニュアンスが含まれている。

「わかった。盗るつもりでポケットに入れたさ。でも、途中でこんなこと良くないと思って、返すことにしたんだ。ちょうどそのとき君たちに話しかけられた。商品を外に持ち出す気はないんだ」
反論しようと身を乗り出した女を制止して、
「こんな話がある。同級生の男がホームセンターで大掛かりな万引きを企てた。ぶかぶかの上着の中にカッターシャツを着込む。ただのシャツじゃない。家庭科の時間に先生の目を盗んで作った、大容量のポケットつき改造シャツだ。そこに文房具、お菓子、ワックス、コンドーム、日本酒、なんでも詰め込んだ。入店時より10kgは太っただろう腹を抱えて店を出ようとしたとき、店員の目線に気が付いた。品物を陳列するふりをして、こちらの動きをうかがっている。外で待機する仲間から『店の前に警察がきてる』とメールが入る。やられた。バレていたのだ。店を出れば、ちょっとキミと声をかけられ、あとは泣く親、怒鳴る先生、放課後居残り反省文。腹中の商品を元の位置に戻すことにした。お前らの思い通りにいかないぞ、という意味を込めて、ゆっくり、ねっとりと、一品ずついやらしく時間をかけて。痩せた身体で店を出るとき、店員が肩を掴んで『今度からは買い物カゴを使ってくださいね』と赤い顔で注意したという。ちなみにその同級生は東大に進んだ。僕はこの東大の理論により無罪である」
「なにが東大の理論よ」
「ほんと」
「よく喋る男ね。舌の回る男と歯の汚い男は信用しないの。あなたはその両方だから、もっとも信用ならないってわけ」
女の手にはさみがある。グレーの取っ手にイエローのテプラで「備品」と貼られた事務用はさみだ。使い込んである。
「殺すのか」
「ばか言わないで」
「ばか」
「それよりもっとひどいことよ」
見事な手際で、一人はシャツと肌着を切り裂き、一人はズボンと下着を断ち切り、一人はスニーカーと靴下を脱がせ、僕は20秒とかからず丸裸にされてしまった。
「縮み上がってるわ」
ポークビッツ
「もっとひどいものよ」
全員がマスクをはこはこさせて笑う。目尻に寄るしわの数で、布地の下に開いた大口の面積がわかった。
ハバネロのお菓子を盗った奴はどうなったっけ?」
「泡吹いた」
「良かったわね。あなたはこれで」
女が缶コーヒーを開けて僕の頭にそそいだ。昆虫の横腹から出るような黒褐色の液体が、胸からみぞおち、腹からおへそへと伝い、閉じた内もものスペースに茶色い三角すいをつくる。女は、消えた消えた、沈んだ沈んだと手を叩いて喜び、ケータイを股間に向けて、
「転覆したオイルタンカーから流出した原油の影響で、ご覧のとおり、マングローブ林が危機に瀕しています」
と実況を加える。
「やめてくれ。反省した。もう二度としない。君らのことも口外しないから」
「あなたが状況を操作するんじゃないの」
「わたしたち」
「それにまだ始まってもいないわよ」
目隠しをされる。チョコレートの包み紙を破く音が聞こえる。6本の腕、30本の指が首すじ、わきの下、尻のあいだを這いまわり、チョコレートを塗りたくる。頭上から残りのコーヒーを注ぎ足し、余りのチョコレートでかき混ぜる。僕は外界と自分を隔てる皮膚の境界を失い、肉までどろどろに溶け出して、もはや3人の腕がどこにあるとも区別がつかず、便器を流れる汚物のように、しだいにただの茶色いうず巻きとなって、そのままグルグルとべつの空間に消え落ちていく。

ーーみたいなことを想像して、これが現実に起きるかもしれないと思うと、怖くなってものを盗るどころではなくなってしまうのである。

 

 

942

 

早朝の品出しバイトを始めた。4時に起きて家を出る。5時から9時までシャンプー、牛肉、冷凍食品を並べる時給1000円の仕事だ。

紙幣を入れない財布は、免許証とPiTaPaを守るカードケースに成り下がった。小銭は942円。自転車の前後に巨人の細胞核を乗っけて運ぶホームレスのおじさんだって、きっとぼくより金持ちだ。くず屋に持ち込んだ空きカンの袋が3,000円に替わる瞬間をテレビで見た。3,000円は大金である。

この記事はお徳用ルーズリーフに、10年前のマークシート用えんぴつで下書きしている。作業途中で友人に誘われてスタバでホットココアのショートを飲み、残金が500円になった。向かいの席で、白いりんごを光らせながらMacBookを叩く人たちをみると「りんごは赤いものだ」と教えてあげたくなる。半財産をかけたホットココアの味がどれほど素晴らしいものか、紙に書いた汚い文字で伝えたい。

給料日まで飢えを凌ぐために親を頼む。この歳で実家を離れたことがない。三度の飯にランドリーサービスまでついて利用はタダ、家に金を入れるという発想を核家族のひとり息子に望むのは、アマゾンに住むカヤポ族に動物園をつくって金を稼ぐというアイデアを求めるより難しい。ぼくを殺すのは、中央線をはみ出したトラックや黄色ブドウ球菌ではなく、ひとり暮らしだろう。

近所に住むJKのいとこが、割れたiPhoneの修理を頼みにきた。過去に一度、画面を取り替えたことがある。ごま塩のごま、ごま塩の塩より小さいネジを十数カ所、抜いたり挿したり回したりして交換するパーツだ。くしゃみで吹き飛ばしたネジを、20分も床に這いつくばって探した苦労を思い出して、「駅前の修理屋さんに持っていったほうが早いよ」と言う。しかし彼女は、ジップロックに入れた見慣れぬ紙の束――これが1万円札というやつか――をぱらぱらとめくりながら「ちゃんとお金は払うから」と多額の成功報酬を匂わせた。きっとぼくの部屋から『ウォートン流 人生のすべてにおいてもっとトクする新しい交渉術』(集英社)を持ち出して読んだのだろう。友達と1週間もLINEしてないの、と嘆く彼女にぼくは「もし直らなくてもパーツ代はかかっちゃうんだよね」と卑劣な条件を飲ませる。

「親のスネはかじれるときにかじれ」
バイト先の更衣室で、エプロンを外しながら50代の同僚が語る。アイスクリームを並べる横で「こんなもん仕事やあらへん。遊びや」と、長年の肉体労働が刻んだ深い縦じわを歪ませる。この仕事に必要なものは、動く手足と、目覚まし時計を忘れずセットする大さじ一杯の脳みそだけ。「早朝の品出しは、ベテランと新人の技能の差がもっとも少ない部門のひとつです」と語る社員は、きわめて正確にこの仕事の本質を突いた。誰でもすぐ学べるかわりに、すぐに技術も頭打ちになる。

暗く静かな店のなか、寝ぼけた頭で、ぼーっと牛乳パックを並べていると、のっぺりとした乳白色の世界に入り込む。Google社の瞑想室では得られない安ものの忘我である。午前9時、従業員出入口の重い鉄扉を開けて、東の空に斜めにかかる朝陽をからだに浴びて、ようやく意識を覆う半透明の膜が破れる。あわただしく回転する世の中の仕組みに逆行して、ひとり帰路をたどる快感は、「さんすう」の始まる直前、なじみない親戚の訃報をうけて学校を早引きする感覚に似ている。

たっぷり残った自由時間を趣味につぎ込んで人生を謳歌する生活を夢みたが、いざ働いてみると、刷毛で塗ったようなうすい疲労が残る身体をベッドに横たえ、菓子をつまみ、屁をたれ、パチスロ動画をむさぼるように見、眠くなれば眠る毎日。iPhoneのパーツはとっくに届いているが、箱を開ける気すら起こらない。北杜夫に言わせれば「日がなナマケモノの神に礼拝する」生活である。しかしこれほど熱心な信徒もそうそういまい。もっとブログを更新する、という意気込みは異端の告白にあたるので、言わないでおく。

 

ときめきバレンタインデート

 

人には、人の幸せをみて、自分もほっこりと心なごませるタイプと、他人の幸福のにおいがほんのすこしでも鼻先をかすめようものなら、全身に悪寒が走って、胃の底からグツグツと憎悪がこみ上げてくるタイプがいる。私は後者の人間だ。高級外車に高級時計、およそ高級とつくすべてのものを身につけ、食し、抱いてきた億万長者、世界的な名声を得て、国の教科書に誇らしく掲載される芸術家といった破格の成功者たちのみならず、ふつうの生活においてふつうの成果をあげる日常の成功者たちも妬ましい。受験、就職、結婚に成功する者。犬の飼育、散歩、フンの回収に成功する者。スーパーでの買い物、会計待ちの列の選択、レジ袋の持ち運びに成功する者。階段の昇り降りに成功する者。ハンバーグの注文に成功する者。毎朝の洗顔、歯みがき、排便に成功する者。数え上げればきりがない(数え上げればきりがないものを数え上げることに成功する者)。

日常の成功者を憎むということは、自分もまた憎まれる側に回るということだ。散歩中、足の悪いおじいさんを追い抜くことがある。びっこをひいて進む長短のリズムは、たっふたふと枝を這う尺とり虫の進行、あるいは時計の脱進機のように、片足がもう片方の足の歯車を噛んで一歩ずつ着実に踏み出していく感じを与える。ふだん意識もしない歩くという動作が、老人には難事だ。彼を追い抜く人はみな、健康な足ですいすいと身体を運ぶことに成功している者なのだ。私は追い越しざま、老人の背を見る者から老人に背を見られる者へと変わる瞬間、自分の成功が憎まれているのではないかと不安になるのである。

憎むのは息するより得意だが、憎まれるのは便所掃除より苦手だ。うんこのしみは拭けば消えるが、憎しみは流れない。したがって、茶色い固形物を男に押しつけても女性が文句のひとつ言われない日、一年のうちでもっとも簡便に相手を毒殺できるバレンタインデーのことは書かないことにする。彼女が持参した手づくりのカップケーキをホテルの部屋でテレビを見ながら一緒に食べた……なんて話は、私の資質からもっとも遠い記述だ。味のしない小麦粉のかたまりを口いっぱいにほおばって「おいしいよ」と嘘をつき、無理なセリフのまごつきでうっかりのどを詰まらせて幽体離脱、これをチャンスとばかり女湯を覗きにいったら、おばさんのツアー客ご一行が胸もとの干しレーズンを湯船につけて遊ばせているところ、期待はずれの光景にしおれた股間だけがふっと実体をとり戻した、それを見たおばさんが「あれ、あんなところに枇杷の実がなっているわ」――その頃、部屋では彼女が股間が消えたと大騒ぎ……みたいな話を書きたいが、現実はそうもいかない。私は干しレーズンもいける口だからである。

では本題はなにか?
――そんなものない。本題がなければ文章を書いてはいけない。書いても内容は弱くなるし、どうしても伝えたいという情熱を欠いた心は悪文駄文の製造元、テレビ裏の綿ぼこりとぴったり同じ存在意義を持つ読みものしか生み出せない。そんなことを教える文章術の指南書をまさか信じちゃいないだろうね。文豪たちの文章読本がさほどの充実を誇れないのは、まさに良い文章の書き方を伝えるというつまらない本題に絡めとられたせいである。文章の奥義を説くと言っておきながら、指の本数、舌先の角度、腰づかいの軌道を子細にわたって検討し、えんえんと我流の閨房術を披露する一節があるとすれば、その寄り道でこそ本道を凌ぐ学びが得られるというものだ。からあげは肉より皮のほうが美味しい。伊勢神宮に続く商店街で、皮だけを揚げた「かわあげ」なるものが露天販売されていたが、身からはがされた皮ほどまずく見えるものはない。本来副題であるはずの皮が、本題に担ぎ上げられたために起きた悲劇である。ここまで言えば、私が本題から離れる理由、ドーナツに穴があるわけ、女のあそこが空洞になっている効果を分かっていただけたと思う。中心より周囲のほうが旨いのだ。

なばなの里のイルミネーションは本年度のテーマを「大地」とする。映画館のスクリーンを横に3つ繋げたような巨大壁面に、何万個というLED電球が協働して一個の風景を描きだす。訪問客は口々に「キレイだね」とささやく。私は最低だなという意味を隠して彼女に「すごいね」と語った。電飾が映しだすのは、山の清流、海の波間にはねるクジラ、オレンジ色の夕陽をうけて荒野を駆けるキリンの群れ。どれも既視感のある「ザ・美しい自然」のイメージだ。電球の配置に莫大な労力を、点灯に巨額の電気代を投じ、わざわざひと昔前のスクリーンセーバーのような映像を作って見せているのである。カメラの登場によって、自然美の模倣的再現(ミメーシス)というふるい美学上の理念は乗り越えられた。最新技術で同じことを繰り返して何になるのか。せっかく立派な装置があるんだから、トガッた映像作家を呼んできて、旧弊の価値観をぶっ壊すような作品でも上映すればいいのに。そう思ったが、ここはなばなの里だ。これがなばなの都だったら前衛、革新、反抗を受けいれる抱擁力もあるだろうが、代々里長の一族がおさめてきた土地でそんな変革は望めない。それに私たちは実物よりも再現されたニセモノのほうが好きなのだ。ものまね芸人、オナホール、アンドロイド……。