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おならっぷばーん

なにも考えずに、楽しむ

942

 

早朝の品出しバイトを始めた。4時に起きて家を出る。5時から9時までシャンプー、牛肉、冷凍食品を並べる時給1000円の仕事だ。

紙幣を入れない財布は、免許証とPiTaPaを守るカードケースに成り下がった。小銭は942円。自転車の前後に巨人の細胞核を乗っけて運ぶホームレスのおじさんだって、きっとぼくより金持ちだ。くず屋に持ち込んだ空きカンの袋が3,000円に替わる瞬間をテレビで見た。3,000円は大金である。

この記事はお徳用ルーズリーフに、10年前のマークシート用えんぴつで下書きしている。作業途中で友人に誘われてスタバでホットココアのショートを飲み、残金が500円になった。向かいの席で、白いりんごを光らせながらMacBookを叩く人たちをみると「りんごは赤いものだ」と教えてあげたくなる。半財産をかけたホットココアの味がどれほど素晴らしいものか、紙に書いた汚い文字で伝えたい。

給料日まで飢えを凌ぐために親を頼む。この歳で実家を離れたことがない。三度の飯にランドリーサービスまでついて利用はタダ、家に金を入れるという発想を核家族のひとり息子に望むのは、アマゾンに住むカヤポ族に動物園をつくって金を稼ぐというアイデアを求めるより難しい。ぼくを殺すのは、中央線をはみ出したトラックや黄色ブドウ球菌ではなく、ひとり暮らしだろう。

近所に住むJKのいとこが、割れたiPhoneの修理を頼みにきた。過去に一度、画面を取り替えたことがある。ごま塩のごま、ごま塩の塩より小さいネジを十数カ所、抜いたり挿したり回したりして交換するパーツだ。くしゃみで吹き飛ばしたネジを、20分も床に這いつくばって探した苦労を思い出して、「駅前の修理屋さんに持っていったほうが早いよ」と言う。しかし彼女は、ジップロックに入れた見慣れぬ紙の束――これが1万円札というやつか――をぱらぱらとめくりながら「ちゃんとお金は払うから」と多額の成功報酬を匂わせた。きっとぼくの部屋から『ウォートン流 人生のすべてにおいてもっとトクする新しい交渉術』(集英社)を持ち出して読んだのだろう。友達と1週間もLINEしてないの、と嘆く彼女にぼくは「もし直らなくてもパーツ代はかかっちゃうんだよね」と卑劣な条件を飲ませる。

「親のスネはかじれるときにかじれ」
バイト先の更衣室で、エプロンを外しながら50代の同僚が語る。アイスクリームを並べる横で「こんなもん仕事やあらへん。遊びや」と、長年の肉体労働が刻んだ深い縦じわを歪ませる。この仕事に必要なものは、動く手足と、目覚まし時計を忘れずセットする大さじ一杯の脳みそだけ。「早朝の品出しは、ベテランと新人の技能の差がもっとも少ない部門のひとつです」と語る社員は、きわめて正確にこの仕事の本質を突いた。誰でもすぐ学べるかわりに、すぐに技術も頭打ちになる。

暗く静かな店のなか、寝ぼけた頭で、ぼーっと牛乳パックを並べていると、のっぺりとした乳白色の世界に入り込む。Google社の瞑想室では得られない安ものの忘我である。午前9時、従業員出入口の重い鉄扉を開けて、東の空に斜めにかかる朝陽をからだに浴びて、ようやく意識を覆う半透明の膜が破れる。あわただしく回転する世の中の仕組みに逆行して、ひとり帰路をたどる快感は、「さんすう」の始まる直前、なじみない親戚の訃報をうけて学校を早引きする感覚に似ている。

たっぷり残った自由時間を趣味につぎ込んで人生を謳歌する生活を夢みたが、いざ働いてみると、刷毛で塗ったようなうすい疲労が残る身体をベッドに横たえ、菓子をつまみ、屁をたれ、パチスロ動画をむさぼるように見、眠くなれば眠る毎日。iPhoneのパーツはとっくに届いているが、箱を開ける気すら起こらない。北杜夫に言わせれば「日がなナマケモノの神に礼拝する」生活である。しかしこれほど熱心な信徒もそうそういまい。もっとブログを更新する、という意気込みは異端の告白にあたるので、言わないでおく。

 

ときめきバレンタインデート

 

人には、人の幸せをみて、自分もほっこりと心なごませるタイプと、他人の幸福のにおいがほんのすこしでも鼻先をかすめようものなら、全身に悪寒が走って、胃の底からグツグツと憎悪がこみ上げてくるタイプがいる。私は後者の人間だ。高級外車に高級時計、およそ高級とつくすべてのものを身につけ、食し、抱いてきた億万長者、世界的な名声を得て、国の教科書に誇らしく掲載される芸術家といった破格の成功者たちのみならず、ふつうの生活においてふつうの成果をあげる日常の成功者たちも妬ましい。受験、就職、結婚に成功する者。犬の飼育、散歩、フンの回収に成功する者。スーパーでの買い物、会計待ちの列の選択、レジ袋の持ち運びに成功する者。階段の昇り降りに成功する者。ハンバーグの注文に成功する者。毎朝の洗顔、歯みがき、排便に成功する者。数え上げればきりがない(数え上げればきりがないものを数え上げることに成功する者)。

日常の成功者を憎むということは、自分もまた憎まれる側に回るということだ。散歩中、足の悪いおじいさんを追い抜くことがある。びっこをひいて進む長短のリズムは、たっふたふと枝を這う尺とり虫の進行、あるいは時計の脱進機のように、片足がもう片方の足の歯車を噛んで一歩ずつ着実に踏み出していく感じを与える。ふだん意識もしない歩くという動作が、老人には難事だ。彼を追い抜く人はみな、健康な足ですいすいと身体を運ぶことに成功している者なのだ。私は追い越しざま、老人の背を見る者から老人に背を見られる者へと変わる瞬間、自分の成功が憎まれているのではないかと不安になるのである。

憎むのは息するより得意だが、憎まれるのは便所掃除より苦手だ。うんこのしみは拭けば消えるが、憎しみは流れない。したがって、茶色い固形物を男に押しつけても女性が文句のひとつ言われない日、一年のうちでもっとも簡便に相手を毒殺できるバレンタインデーのことは書かないことにする。彼女が持参した手づくりのカップケーキをホテルの部屋でテレビを見ながら一緒に食べた……なんて話は、私の資質からもっとも遠い記述だ。味のしない小麦粉のかたまりを口いっぱいにほおばって「おいしいよ」と嘘をつき、無理なセリフのまごつきでうっかりのどを詰まらせて幽体離脱、これをチャンスとばかり女湯を覗きにいったら、おばさんのツアー客ご一行が胸もとの干しレーズンを湯船につけて遊ばせているところ、期待はずれの光景にしおれた股間だけがふっと実体をとり戻した、それを見たおばさんが「あれ、あんなところに枇杷の実がなっているわ」――その頃、部屋では彼女が股間が消えたと大騒ぎ……みたいな話を書きたいが、現実はそうもいかない。私は干しレーズンもいける口だからである。

では本題はなにか?
――そんなものない。本題がなければ文章を書いてはいけない。書いても内容は弱くなるし、どうしても伝えたいという情熱を欠いた心は悪文駄文の製造元、テレビ裏の綿ぼこりとぴったり同じ存在意義を持つ読みものしか生み出せない。そんなことを教える文章術の指南書をまさか信じちゃいないだろうね。文豪たちの文章読本がさほどの充実を誇れないのは、まさに良い文章の書き方を伝えるというつまらない本題に絡めとられたせいである。文章の奥義を説くと言っておきながら、指の本数、舌先の角度、腰づかいの軌道を子細にわたって検討し、えんえんと我流の閨房術を披露する一節があるとすれば、その寄り道でこそ本道を凌ぐ学びが得られるというものだ。からあげは肉より皮のほうが美味しい。伊勢神宮に続く商店街で、皮だけを揚げた「かわあげ」なるものが露天販売されていたが、身からはがされた皮ほどまずく見えるものはない。本来副題であるはずの皮が、本題に担ぎ上げられたために起きた悲劇である。ここまで言えば、私が本題から離れる理由、ドーナツに穴があるわけ、女のあそこが空洞になっている効果を分かっていただけたと思う。中心より周囲のほうが旨いのだ。

なばなの里のイルミネーションは本年度のテーマを「大地」とする。映画館のスクリーンを横に3つ繋げたような巨大壁面に、何万個というLED電球が協働して一個の風景を描きだす。訪問客は口々に「キレイだね」とささやく。私は最低だなという意味を隠して彼女に「すごいね」と語った。電飾が映しだすのは、山の清流、海の波間にはねるクジラ、オレンジ色の夕陽をうけて荒野を駆けるキリンの群れ。どれも既視感のある「ザ・美しい自然」のイメージだ。電球の配置に莫大な労力を、点灯に巨額の電気代を投じ、わざわざひと昔前のスクリーンセーバーのような映像を作って見せているのである。カメラの登場によって、自然美の模倣的再現(ミメーシス)というふるい美学上の理念は乗り越えられた。最新技術で同じことを繰り返して何になるのか。せっかく立派な装置があるんだから、トガッた映像作家を呼んできて、旧弊の価値観をぶっ壊すような作品でも上映すればいいのに。そう思ったが、ここはなばなの里だ。これがなばなの都だったら前衛、革新、反抗を受けいれる抱擁力もあるだろうが、代々里長の一族がおさめてきた土地でそんな変革は望めない。それに私たちは実物よりも再現されたニセモノのほうが好きなのだ。ものまね芸人、オナホール、アンドロイド……。

 

(ここにおもしろいタイトル)

 

また懲りずに本を買ってしまった。
「カネがないのに本を買うのか?」
愚問である。本を買うからカネがないのだ。

こんな実験がある。
金欠のくせに本が好きなKという男を呼び出し、バイトの給料の入ったATMと、自転車で5分とかからず通える書店を与えたところ、不憫にもKは、本を買う→カネをおろす→本を買う→カネをおろす→……のピストン運動を始めて、ついに預金を使い果たしてしまった。Kはその後だれにも顧みられることなく、マンホールの溝に生えた緑ゴケをむしって食べる生活を送った。政府はこの実験に学び、貧しい人間を本嫌いに育てるべく、低収入世帯には低俗な趣味を尊ぶよう教育を施し(その成果は、レクサスのロゴを貼りつけたカスタム軽カーの大げさな左折に見ることができる)、ATM利用時にチクチクと刺すようないやらしい手数料を課した。

かたむき氏の発注書によると、ここで「怒りのばくはつ(内容は音声ファイル参照)。とにかくこのおれが面白く、賢くみえるものを」とある。素人め。現場の苦労を知らぬから無茶な注文をしくさる。たまには自分で話をまとめてみろ、うすのろめ。申し遅れたが、私はブログ更新代行サービス会社の社員、かたむき氏の代筆担当者である。今まで君たちが読んできたものは、実は私の手によるものだ。顧客の秘密を漏らせばただでは済まない。むろん私はこれを最後にゴーストライター稼業から足を洗うつもりだ。70億人中たった3人の物好きのために伝えると、私が辞めても、ほかの社員が引き継ぐから更新は続く。代行の仕事は、誰がやっても品質に差が出ない単純作業だ。道路の舗装からCMのディレクションまで、クリエイティブな仕事の大半は、人を替えても問題なく動く仕組みに乗っかっている。私でなければ、という感覚は、思い過ごしか思い上がりの錯覚だ。替えが利くのは悪いことじゃない。個人は悲しむが、種としては喜ばしい。平和の時代に生まれた諸君は「身を鴻毛の軽きにおく」の心得を忘れている。いやしくも満州をおさめた関東軍の兵士を先祖に持つならば、彼らが入隊初日に受けた訓示を遺産として引き継がねばならん。「自分の肉体の生命などは、『大君』(神格化された天皇)の命令の前には、一羽の鳥の一枚の羽根ほどにも軽いもの」とする精神である(三國一郎『戦中用語集』)。この大君は各自が適宜、社長、所長、女房にとり替えてほしい。命の軽さに耐えられないと言うなら、社長の顔にうんこを塗りたくり、寝ている所長の鼻の穴にチューブを挿し込んで鼻サラダのわさび和えをつくれ。奥さんはそっとしたまま逃げて、私といっしょにパチプロとなって自由に生きよう。駅前で開店を待つ。職場や学校へ向かう人波の「このクズめらが、平日の朝っぱらからギャンブルなんかしおって」「僕もダメな奴だけど、あいつらよりはマシだ」「ああはなりたくない」ともの言わず語る目線のつるぎに生身をさらそう。ポーランドの詩人は言った。「源泉にたどり着くには流れに逆らって泳がなければならない。流れに乗って下っていくのはゴミだけだ」。私はゴミだ。泳ぎ疲れ、波にもてあそばれるままのゴミ。どろにまみれ、反吐をかぶり、工業排水のあぶくを全身にくっつけて、魚の死体といっしょに河口をただよう。しかし、流れの果てに海の接続を知るのは、そのゴミだけだ。苦労してみつけた源泉は、きっと観光客向けに整備された模造品だろう。ほんとうの源泉は、山の一点ではなく、山のいたるところから滲み出る水の全体にある。その水を供給するのは雨、雨となって降る雲、雲をつくる水蒸気、蒸気を生む大海である。かつて侮られたゴミこそが、真の源泉にたどり着く唯一の存在なのだ。それが証拠に、どのパチンコ店にもかならずCR海物語が置いてある。この台でおろしたての年金をなくすトボけた老人達をみれば、海に始まり海に終わる、命の循環さえ知れる。この続きはあとでやろう。まずは仕事だ。

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筒井康隆は『創作の極意と掟』刊行時のインタビューで、作家を目指す際に参考にした本はあるかと訊かれ、「ありますあります。最初は僕だってねえ、もう右も左も分かんなかった。ちょうどあの頃ね、丹羽文雄、なんて言ったって皆さん憶えているかな。あはは。あの人の、小説の書き方についての本があった。それですね、一番最初に読んだのは」と答えた。

好きな作家の裏にある原材料、なにを読んで彼は小説家になったのかという成分表は、出身大学の偏差値と同じくらい気になる。同じ文章を書く者として――というと、F1マシンと幼児用ペダルカーを同じ「車」という類概念で一括する乱暴さはあるけれど、ともかく文章上達のヒントになりそうなものは何でも読みたい。

Amazon丹羽文雄『小説作法』の中古本を買う。届いた包みを開けると、『小説作法』に小さく「実践篇」の文字がある。まさか、と思って本の奥付をみると、発行は1955年、これはウィキペディアの情報と同じだ。なんだ、正式には「実践篇」がつくのか、と思って開いたページに「先に私は、『小説作法』を書いた」の一文をみつけて、発狂した。

クソがっ。続きのほうじゃねえか。電話だ。電話してやろう。おたく、えらいことしてくらはりましたな。え。どないしまんねん、どないしまんねんと大阪弁で迫り、もとの『小説作法』をタダで送れと、ごねて、ごねて、ごねまくるのだ。食べ物だけじゃない。読み物のうらみだって恐ろしいことを教えてやる。

「いや待て」
ダイヤルをやめてアプリを開く。そうだ。もし、ふつうの『小説作法』より『実践篇』のほうが高かったら、ふつうの『小説作法』ぶんの代金しか払ってないから、得したことになる。ほら見ろ。『実践篇』のほうが高い。その差額は、25円――。

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告白する。かたむき氏の代筆として登場した私は、実はかたむき氏によって代筆された人格なのだ。賢明とはいえない読者のなかには、どういうことだと混乱する人がいると思う。安心してほしい。私もその一人である。

『アウトプットのスイッチ』の巻末に、著者のデザイナー・水野学と、生物学者・福岡伸一の対談が載る。福岡は、クリエイティブな活動を生物の進化になぞらえて、「設計したんじゃなくて発生してきたものが本当の解」だと語った。

そうだ。蝶は美しく見えるように翅を設計したわけじゃない。たまたま発生した色、カタチ、模様がたまたま残り、それが蝶の解となった。私はこれまで、なにを書くか事前にこまごまと設計図をひいて正解を出そうとしてきた(ありがたい。テスト勉強のおかげだ。正答を選んで、部分点を稼ぐ。しかし答案についた丸がすべてゼロという意味だったら?)。でも、あてもなく進んだほうが、予想しなかったものに振りまわされて面白くなる。偶然に賭ければ、オリジナルの答えが出る。人にすり寄り、人にあわせる努力はむなしい。他人は採点するだけで、答えてはくれない。

・・・

私は、図書館に流れ着いた。平日の館内には、私の未来型――いつ来ても同じソファの同じ位置に同じ格好で座り、ただ目をつむって時間が過ぎるのを待っている家なき中年おやじ、つぎに私の現在型――寝巻きのグレーのスウェットに、こぶの大きな安物の黒いダウンを着た姿で、襟元と肩口に大量のフケをばらまき、表情筋の隆起ひとつないのっぺら顔を小きざみに上下させて、哲学、心理学、精神世界の交差点に立ち、生きることの出口をひたすら探しもとめる若い男、そして過去型――柱のかげに隠れて女子のパンツが描かれた絵本をじっと見つめる男児に出会う。なるほど、小説は人生の縮図を見せるが、図書館ロビーには、しわくちゃになった原寸大の人生がいくつも横たわっている。『超一流になるのは才能か努力か?』を読んでいると、前に座るベージュのスラックスを穿いた老人が、フローリングの床でパイプ椅子を引いたような、「ばー」という音を出した。それがあまりに堂々としているため、おならとわかるまでに時間がかかった。書店では棚の向こうから「ばー」、トイレでは3つ横の小便器で「ばー」。世の中には人前で屁をしても平然としていられる人がいる。努力では磨けない技能だ。

予備校で東京からの中継授業を受けているときに、前に座った同級生の男が片尻をあげて力み、放送をかき消すボリュームの屁をしたことがある。ばー、お構いなしに世界史の重要項目を説きつづけるスクリーン上の講師。ばー、生徒もみな何もなかったようにペンを走らせる。本人も身じろぎひとつしない。異常だばー。この空間はばー、なにかがおかしい。ばー。ここはおれの居るところではないと思って、それから二度と行かなかった。人が自分のほんとうの居場所を見つけるための音となりたい。そんな意味を込めて私はこのブログ「おならっぷばーん」をつくった。