『"仕事をする"という本』序文

 

預金残高が1万円を切った。モニタの数字が5ケタから4ケタに成る瞬間、10年育てた愛猫が家を出てどこかへ行ってしまったような悲しみと、ある日、帰るべきふるさとが海の向こうの大国に併合されて祖国を失う寂しさに抱きすくめられた。防犯用の凸面鏡を覗くと、やっぱりいたいた、焦燥感である。黒のスリーピースをさらっと着こなすおしゃれなやつさ。ジャケットに挿したポケットチーフは、尾根が一直線に伸びた山型にピシッと畳まれているが、これも当然黒色のため、本当はスーツのしわかも分からない。爪のあいだをすすで汚したまっ黒な指でつかむ黒革のアタッシュケースには、お得意の仕事道具である不安一式が、それぞれの不安のかたちそっくりに成形されたウレタンスポンジのすき間に、きれいに納まっていることだろう。彼と会うのは初めてじゃない。帰宅途中のサラリーマンをレーザーポインターでからかって、家にパトカーが来たとき。懲りずに同じことを今度は海外のホテルで警官相手にやったら、しばらくして部屋の電話が鳴り、「撃たれても文句は言えないぞ」と凄まれたとき。彼女のメールに「生理が来ない」の一文があったとき。わかばマークともみじマークを貼った車の後ろにつけたとき。前歯が折れたとき。前歯の差し歯が折れたとき。かならず黒いカバンを提げた焦燥感がうしろに立っている。

最近、母と外出するようになった。多く私たちのなかにある母の像というのは、私たちが子どもの頃に接した彼女のままで止まっている。20代から30代の、人間として女性としてもっとも充実した栄養と発熱を誇る時代の、美しい母のすがたである。それがある日、長年の有効期限がついに切れてイメージの更新を迫られることになる。手足は枯れて箒の柄のように細くなり、頬がこけて顔に太いかげが走る。夕刻の波打ち際のようにきらめき流れたブラウンの髪も、生鮮コーナーの刺し身のつまと同じ、しわがれた白のちぢれ毛に変わりつつある。母が祖母に似ている、というより母は祖母になったのだと気づく瞬間、親子の関係はそのままに、いつしか役割が逆になったと知る。一緒にいられるわずかのあいだに、鮮明な記憶を焼きつけねば、いきいきと甦る交流の思い出を残さねば――そういう焦燥から、時間をみつけては母を外に連れ出すようになった、のでは断じてない。あわよくば、欲しいものを買ってもらおうという魂胆だ。「親孝行したいときに……」の焦燥というより、金欠のあせりから、いわば母を移動式のサイフとして連れて歩くようになったのである。30代で親から仕送りを受け続ける芸人が、同業者から親不孝をなじられ叫んだ、「いくつになっても子どもは親の子」は、けだし名言である。

母を大丸百貨店に連れ出して、東急ハンズポストイットを買ってくれとねだった。たった250円だ。じつは前日、私は同じ売場で10分ちかく悩んでいる。合法的に、しかも持ち金を減らさず、これを家に持ち帰るにはどうすればいいのか。公文式仕込みの頭をフル回転させて得た答えが、おでかけと称して母を誘い出す計画であった。天運は私の味方をする。いや、運などという不確かな因果律を信じてなるものか、これは血をわけた親と子のあいだに起こる必然の一致。大阪駅へ出ると言うと、母は、

「日傘が壊れたから東急ハンズに行きたい。直してもらえるところがあるやろ」
と切り出してきた。
「あるよ。でも、あそこまで行くの面倒くさいなあ」
と嫌がる。へんに喜べば裏があると思われる。それに、わずかでも相手に付き合わせて悪いと思わせたほうが、交渉がはかどる。しかし母は手強かった。

「これ買ってや」
「ふせん? なんでこれがいるん?」
「本読んでるときにしおり代わりにするから」
「やったらチラシを細く切ったやつでもええやん。やめときこんなん、バカらしい」
しおりならタダで代用品がいくらでも作れるという事実を突きつけられて、返すことばがなかった。さすが戦中戦後の物資難の時代を生きながら、3人の娘を育てあげた逞しい祖母の子、教えられ、あるいは実地に培わざるを得なかった倹約の精神、我慢の根性は、公務員の父と結婚して世間並み以上の豊かさを手にしたあとでも、決して衰えたりはしない。だから私は中学生になっても、床屋ではしばらく小学生と名乗らされた。

ポストイットの次に用意していた、ほんとうに買って欲しいもの――本は、断念するしかなさそうだ。試しにそれとなく意向をうかがうと、図書館で借りるか、自分で書くかしろと言われた。新刊本で取り扱いがないし、自分で書けるならそもそも他人の本を読んだりしないと食い下がると、その場で図書館への購入リクエストの出し方を丁寧に教えてくれた。うわの空で指示を聞きながら私は、どうせなら本の書き方のほうを教えてくれと思ったものだ!

やけになって、わずかの預金を切り崩して本を買った。『「本をつくる」という仕事』(筑摩書房)である。母はタイトルの仕事を指さして、「あんたもこういうことしたらええねん」と無職の息子を見た。

その通りだ。

 

血の水槽は、くちびるで洗う

 

男女のぬれごとのひとつに、相手の肉を吸ってアザをつける遊びがある。初めて付き合った女の子が、身体に吸いあとを残したがるのをみて、変わった趣味だなあ、と思った。次のガールフレンドが同じ場所にまったく同じことをしたとき、この遊びは女性が育つあいだに会得するわざのひとつだと確信した。そこで訊いたのである。

「みんなが読むような少女マンガでさ、主人公の女の子が彼氏の身体にあとを残すみたいな描写があるの?」
彼女はすこし考えて、
「とくにないかな。なんで?」
いや前の彼女もさ、と言うのはまずい。
「マンガの真似でこういうことするのかなと思ってさ」
「ちがうよ。単純に自分のものだってアピールするためにやるの」
盗まれないよう、大事なゲームカセットに名前を書いた小学生の頃を思い出す。
「じゃあ俺も乳首のまわりにある余白にマイネームで名前を入れてもいいかな」

女性は交合のさい、男がみな似たような手順を踏むことに、偶然の一致の妙を感じることはないのだろうか。ことの始まりから終わりまで、諸子百家の持論、珍説が女体という真理のまわりをウロつき歩くわけだが、誰も箱を開けたあとから包装紙を破かないように、指を突っ込んで散々かき混ぜたあとからパンツを穿かせた布のうえで今さらはがゆい愛撫を授けたりしない。つまり事態はつねにエスカレータ式中高一貫校のごとく、程度の高いほうへ向かって進行する。男子の目的は山のいただきで白い吐息をつくことだけだが、どのルートを通っても、登る行為に変わりはない。拡散するバラエティは、おつまみミックスとして袋にまとめられ、298円の値札とともに店に並ぶのである。「あら、せっかくちがうメーカーを選んだのに、中身はみな同じ味なんだわ」と買い物客が気づくまで、2組の玉袋があれば充分だ。やがて女は訊ねる。

「もしかしてAVとかでさ、男優も同じような感じで女の子とエッチするの?」
僕はきっと嘘をつく。
「そんなことはないけど、なんで?」
前の彼氏も似たセックスをしたから、とは言わない。
「AVの真似でこういうことするのかなと思ってさ」
「違うよ。単純に気持ちよくさせたいからする」
「それじゃあ、あたしの乳首の余白にマジックで名前を書いてちょうだい」

・・・

女が痕を残したがる理由はわからずじまいだが、やたらと水族館に行きたがる理由だけははっきりしている。テレビ、雑誌が取上げるせいだ。魚がバカみたいに泳ぐところを見て一体なにが楽しい? 排水溝のザリガニ、水堀のコイには見向きもしないくせ、アクリルガラスの向こうを名も知れぬ小魚が横切っただけでまるで奇跡が起こったように騒ぐ。ピンクだの紫だの、それらしく照明さえ当ててやれば、使用済みコンドームのゆらぎも、深海のクラゲと同じように女をうっとりさせるだろう。デートに付き合わされるたび、「お魚さんたちカワイイね」と言う内心で、そんなことを思う。しかしそれは東京スカイツリー横の、すみだ水族館に行くまでの話。

・・・

平日夜の閉館2時間前に入った。小学校の遠足隊はおろか、ひと組の子連れ客もいない。水族館でいちばん厄介なのは、エラに寄生するギロダクチルスではなく、市立緑ヶ丘小学校の3年生である。子どもの光がかげを追うのだ。かげなきところにムードなし。もちろんムードとは幻である。それが大人になると実体の雰囲気として感じられるようになる。曇りガラスの目を館内に持ち込んで、子どもに触れてもやが晴れたと文句を言っても始まらない。ムードを通さねばまともに見られぬ綺麗さの、相手の顔と中身が悪い。

おや、と思ったのは、仕事帰りの一人客ばかりで賑わっていたことだ。腕時計の秒針が消えてなくなる薄明かりの館内のすみで、ぱんぱんのビジネスカバンを床に投げだし、コートのうえから自分を抱きしめてちぢこまり、口を開けたまま、一人ソファに飲まれている中年サラリーマンがあちこちにいた。彼らの舌で温まったコガネムシのさなぎが、つぎつぎと羽化して口から飛び発つのが見えた。植物の不動と包容、明日のToDoリストを風雨のいたずらとみる超然の構えである。なるほど、これが現代流の悟り方というわけだ。わざわざインドの山奥にわけ入って菩提樹を探さなくとも、あるいは家を捨てて仏教の奥義を学び、禁欲の修行に耐えなくとも、駅から5分歩けば、個、「われ」といった感覚、往き先、死の先、チンコの先の思い思いに煩わされることなく、明日の俗界を生きる活力がよみがえる。とならば、キザな態度で哲学的な考えを起こしても、考えるだけで動くのは面倒だ、というより動くのが面倒だから考えることにしたのだ、と言ってあごに手をやる現代人にはうってつけの避難場所である。自宅での手作業を嫌って、いそいそとDVD試写室に向かうお父さんのように、ほかの場所では抜け殻になれない人、精神の容れ物になれない人がやってくる。胸のうちにごっそり溜め込んだもやもや、タバコのやに、藻のヘドロ、ヤギのひづめ、曲がった釘、ガード下の立ち小便、イモリの頭、ヤモリのしっぽ、昨日の競馬新聞、テープで直した割れメガネ、黒くしなびた片軍手をでろでろと吐き出しにくる。

気に入った。建物が狭く、展示物が少ないのはむしろ美点である。わざとらしく延長した通路をだらだらと歩かなくて済むし、なにより魚を見る手間が省ける。結局、水族館でじゃまになるのは魚なのだ。多くの人はカン違いをしているが、雄大であるとは、ジンベエザメの宙返りを見て思うことではない。このガラスが割れたら…と恐怖するほど圧倒的な大水槽に5,000トンの水が満ちている。しかし、魚はいない。いや、よく見れば遠くかすんだ水面際に、親指大の赤いあざやかな金魚が1匹、ふっと尾ひれを動かして進むのが見えた。そのわずかな前進に果てしなき雄大さがこもっている。

単に人に知られているということよりも、もっと実質的な理由で賞賛される、確かな美点を持った人は、しばしばたたえられない英雄として終わる。それは、……孤独な、薄給の、魅力のない、人に知られない仕事に精出している人たちである。
D.J.ブーアスティン『幻影の時代』

 

ディズニーランドの年間パスはタダでもいらないが、すみだ水族館のパス(4000円)は年に5枚買ってもいい。ここに通える東京在住の人をねたましく思う。「でも大阪には海遊館があるじゃん」って、きみ言うけどもやな、

あんなもんあきまへんで。第一こう、女の赤貝がぱっとひらいて、その隙間からなんともいえん塩くさい水のだーっと垂れてくるようなムードっちゅうもんがあらへんねん。ある意味、これがほんまの大阪ドームやね。な、うまいこと言いますやろ?

 

ふつうの日記

 

たまにはふつうの日記でも。

そんなただし書きを付けねば、まともに一日の記録も残せないのか、おれは。生活の送りかた、送りかたの捉えかた、捉えかたの伝えかたに、人となりが出る。センス、地位、教養、経済、靴ひもの結びかた、カリ下ひだ裏にひそむ恥垢の色においが出る。変人を自称することでやっと世間から優越できるおれみたいな人間は、つまらぬ素性の発覚を恐れて、真正面から日記を書くことができない。今もこうして戯文づくりに励み、本題をけむにまこうと必死の顔だ。

凡人の第一条件は、才人らしく振る舞うことである。なるほど。いま作ったこの警句を思い出すと、おれのやっていることは自分の凡人に証明を与えることなわけだ。

本物はなにを言うか。 

決意の凄味か。スッキリしないなあ。

この足裏に感じる冷たいものは、あのいやらしい沼地のどろだろう? しょせんは天才による凡人論。そんなものは凡人の天才論と同じくらい、あほらしい。どこまで引っ張っても交わらぬ二直線を、平行と言うのである。

幸い、この世界では相容れぬ平行線のうちにあらゆるものごとが生じるようになっている。ゆえに汝、線となるなかれ。

空となれ、間となれ。