おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

この喫茶店が怖い2018in大阪

 

ヤクザはどこにいるのか。

アウトレイジミナミの帝王、実録安藤組外伝地獄道にはコワモテ役者の筋者が、警察24時にはモザイク処理をうけた本ものの暴力団が出てくる。街で小沢仁志、竹内力、白竜に会うことはない。現実の組員はこれぞヤクザという恰好を避けて、風景にまぎれる地味な姿をしている。知らないうちに何百人の極道とすれ違っているかもだが、そもそも夜の繁華街を歩くことはおろか終日家を出ないこともザラなので出会いようがない。

スタバもだめ、タリーズもだめ。人の多さに疲れてゾンビ化した僕は、座る場所をもとめてふらふら大阪駅をさまよっていた。買いもの袋をぶどうのように実らせた訪日外国人と、流行が人格をうわ滑りするインスタ映えカップルの美尻汚尻、デカ尻、貧尻で埋め尽くされている。駅にはがらんとした使途不明のスペースが随所に開けているくせに、ベンチやスツールが一脚もない。疲れた人は、わずかに突出した建物のへりに尻をひっかけたり、スーツケースで四角いロデオを演じたり、柱にもたれて11ラウンド目のボクサーみたいにうなだれている。人の滞留を避けるためか、ホームレスの寝床を奪うためか知らないが、イスの供給不足に腹が立つ。いざとなったら腰かけられる老人用の手押し車でも押して歩いてやろうか。

看板の字といい色といい、ショーケースに並ぶクリームソーダの緑のくすみ、クリームのほこりの頂きかたといい、すべてが昭和を感じさせる古風な喫茶店。窓からのぞく客層は60代中心、白髪の混じらない頭はない。赤のステンドグラスがはまった木製ドアは、真鍮の手すりが万人の手垢でまっ黒になり、手すりを嫌ってドアを直押しする客のせいで、ニスが落ちた木の地肌が黄色く露わになっている。スナックのように閉鎖的な店構えは遠景の印象で、実際は壊れたドアが閉まらずに内臓がまる見えであった。入ると、とにかくタバコくさい。分煙とかでなく全席が喫煙席だ。そりゃ若い子が来ないわけだ。追われた喫煙者たちがどっと押し寄せて店内の喫煙率は100%。咳払いなんかしてみろ、ギッとにらまられて店を出ることになる。Philosoph muss rauchen. 哲学者はタバコを吸わねばならぬと言う。くわえタバコでパチンコを打つおじさんも、球の動きを追いながら哲学するわけである。おれは一体なにしているんだろう、数字が揃って何になるんだろう、おれにフィーバーの機会はあるのだろうか、と。

 

 

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こんな感じの一団が窓を通った。長身、短髪、ぶ厚い胸板、チョコ色にむらなく焼けた肌、目つき鋭い男たちがぬっと現れたとき、全員を清原だと思った。薬物中毒者は注射痕や不摂生による顔の黒ずみを日焼けで隠すと聞くが、どおりで清原も、いやもしかするとこの清原似の男たちもそうではないか、と疑う。そして護衛を連れた老人は何者なのか。

僕は店選びをしくじった。彼らが入ってきたのである。スタバに行くべきだった。老人はダークモカチップフラペチーノを飲みそうにないからである。後ろのボックス席が空いて、黒エプロンの肥満体の男性店員が、円い銀トレーに手早くカチ、カチと音をたてて食器を下げる。彼らが後ろに来たらどうなる。ヒットマンと間違われて、港の空き倉庫で足の爪を一枚一枚ペンチで剥がされるかもしれない。幸い彼らは別の空席に向かったが、ここから先は描写できない。怖すぎて覗けなかったのである。実話ナックルズの記者が、暴力団の取材では監禁脅迫あたりまえ、とTVで笑って話していた。さいあく人殺しも辞さないという構えがありありと伝わる集団のなかへひとりペンを持って突入するのは相当な勇気というかまさに決死の覚悟がいるものだと肌で感じた。コーヒーを残して店を出ると、若手組員が大股を開いて後ろ手を組み、ドアを左右から固めていた。警護の徹底ぶりから、人物の大きさがうかがえる。任侠映画は現実であった。僕の役柄は、一大組織を率いる任侠道の主人公でなく、喫茶店の背景に溶けこんだ市民Aであることをつくづく自覚させられたのである。

 

言葉・狂気・エロス

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言葉
狂気
エロス

最高のメニューだ。愛するものが3つも並んでいる。エビフライ・ハンバーグ・カニクリームコロッケのランチを想像してほしい。これが中古100円である。食べものの中古は食えない。前任者の歯がたが短い弧の連続を描いてエビフライを雲のかたちに切りとる。どこかのオジサンとのど奥で激しく愛し合う。苦い胃汁がこみ上げる。

エビフライの話である。担任が給食中「みんなが今食べてるエビはどこで獲れるか知ってるか」と訊く。海~という大方の予想に反して教師は「トイレだよ。ぼっとん便所みたいなとこでね、みんながうんちとかおしっこしたやつが溜まったところで、ぴちゃぴちゃ跳ねているエビを捕まえて日本に輸出するんだ」、フライの頭をガシガシ食べて言った。以来、茶色のころもを見るたびに、池のへりにかけた2枚の板っきれ、そこへズボンをたくしあげてしゃがみこむアジア人の子ども、板間から音もなく垂れる排泄物のシルエット、そして糞尿の広大な茶水面を、中国山水画の原風景のように、エビフライの遥かな故郷として思い浮かべる。

古本にあるのは、食べさし飯の嫌悪感か。誰かの体液を吸った古下着には脚を通せぬようなものか。作家井上ひさしは下積み時代に金に困って売った全集を10年後に買い直した。すると、これが書き込みだらけ。イヤだイヤだと思いつつ読み進めると、前任者の読書勘するどく、要所要点がことごとく赤で押さえてある。こりゃすごい。きっと前の持ち主は大人物に違いない。反応の生理が偶然というにはあまりに一致して気持ち悪い。本の奥付をのぞくと廈(ひさし)、つまり自分の蔵書印が押してあった――という話を本人のエッセイで見た。自分の書き込みですら時間が経つと炊飯ジャーの白飯みたいに臭うのに、他人の筆跡をどうして気に入ることがあろう。大学の偉い先生が残した線だって嬉しくない。他人の歯がたがついた本を後から囓るのは、電車の手すりを舐めるようなものだ。

 

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最近読んで感銘を受けました
結婚一周年を記念して贈ります
昭和四十六年九月 母上の友人

なんで結婚1周年に『人間マルクス』やねん!マルクスよりマルエツのいわし竜田揚げのほうがええわ! マルクスと言えば、下に主義がくっついて怪物ワードのひとつになっているが、この本はマルクスと嫁と子どもの生活にせまる愛の物語である。

癌の妻ジェニーをマルクスは病躯をおして看病する。

恐ろしい病気の勢いが一時ゆるんで、彼女が部屋を離れることができるようになると、カールは彼女に付き添って行く。旅行はこの上なくうまくいった。パリで診てもらったフランス人の医者がアヘンを主成分とする薬を投与したので、痛みがやわらいだのである。マルクスは無蓋の馬車に彼女を乗せて、グラン・ブールヴァールを見せて回った。夏のことで、格別な上天気であった。二人はとあるカフェのテラスに立ち寄ると、若き日の思い出の数々が頭に浮かんできた。愛は、死とともに、やがて終わりを告げるであろう。しかしこれは偉大な愛であった。
ピエール・デュラン(大塚幸男訳)『人間マルクス―その愛の生涯』岩波新書

最期まで添い遂げる夫婦の理想。ヤメルトキモ、スコヤカナルトキモーの契約履行。友人の子へ本をプレゼントする「母上の友人」。それをブックオフに二束三文で売り払う夫婦。すべてが感動的である。書き込みのドラマに介入したくて買い求める。そういう例もある。

 

言葉

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ここまで読んだ人のなかには『言葉・狂気・エロス』の話がいつ始まるのかといぶかる美人女医もいれば、このまま内容に触れず終わるつもりだと見抜いた三つ目のバケモノもいることだろう。読めなかったのである。

言葉とはその表層意識において物象化された姿と、深層意識において流動する姿をともに有しているのであり、『快感原則に従う一次過程』にある言葉は必ず『現実原則に基づく二次過程』へと拘束され、物象化される種をその発生時から宿しているし、二次過程に移行した言葉はまた絶えず一次過程へと回帰していく円環運動のなかにある。

この調子である。言語哲学者の言葉がまともに読解できると思ったら大間違いだ。内容はちんぷんかんぷんでも、文体が好きだから丸山圭三郎を集める。知力でねじ伏せたような文章が好きだ。

詩人たちの営為は、関係が物化して私たちを支配し操作する日常の表層世界、一義化され極度に合理化されている制度、画一化された価値観、等々を否定する実践であり、……<異化>という芸術手法、すなわち私たちの無自覚的、惰性的生活において信号の様相を呈している言語によって、心身が自動機制化され条件反射の道具に成り下がっている人間を、蘇らせる試みとも言えよう。

えっ?

二度聞きを強いる長文。圧倒的な作業記憶量で書き連ねた「詩人たちの営為」~「試み」間を埋める膨大な要素たち。なんとなく意味がわかる不思議さ。指折り数えて九九やる横で5桁の問題をそらでやってしまう人を見る脱力感。

明晰な文章は詩になる。「表層世界の否定」という意味では学者も詩人も芸人も、リアカーを曳く浮浪者も、【を横にしたような髪型の最高指導者も、現実にたいしてポエジーを持っている。本多勝一は『日本語の作文技術』で「詩歌・純文学」、「論文・新聞」をそれぞれ文学的、事実的の二象限に対置したが、文学的な事実も、事実的な文学もある。

詩人谷川俊太郎は言う。

僕は日本語を使う物書きなのに、自分の家への道順ひとつ正確に語れないとは何ごとかと、それを恥に思ったわけ。そういう発想から、最寄りの駅から自分の家までの道順を、森鴎外のような正確な散文で書いてみよう。もしかするとそれは詩になるのではないかと思ったんだ。
大岡信谷川俊太郎『詩の誕生』岩波文庫

ものごとを正確に記述しようとすればするほど、生活感覚からして不確実な世界に迷い込んでいく。東へ走り続けると西から戻ってくるような奇妙な現象が起こる。言葉は不思議だ。それを思議する哲学者はもっと不思議だ。ちょっぴり不思議な黒糖ショコラ。

 

狂気

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狂人になりたい。狂気と才気は結びついている。常人でいたい。多数派の考えは安心できる。ユニクロで同色同柄の服が大量に売られているのを見ると、これを着たら皆と一緒だと思う。ラーメン屋で「人気」のメニューを食べ、理髪店で「普通」を頼む。常識が18歳までに集めた偏見のコレクションなら、常識人とはその倉庫番を生涯つとめる人のことだ。狂人になりたがる、という発想じたいがすでに常識看板のしたにある、ありがちな物品の一つなのかもしれない。

櫛野展正『アウトサイドで生きている』は、おそらく地元では有名なキチガイおじさんおばさんを集めて、そのエネルギッシュな創作活動をとりあげる。精神病の発症率が決まっているように、キテレツな人間はどこにも一定数いるものだ。家の近くに古い長屋がある。かびて斑点だらけの壁が腐り落ちた家で、半開きの玄関の引き戸の前へ、丸めたティッシュ、すり切れた革靴、封を切ったコンビニの割り箸、花の青絵が入った茶碗をメジャーではかったような正確さでぴしっと一直線に、等間隔に並べてある。売っているのである。店主は半開きの戸の奥のどこからか、客の動向をうかがっているのだ。この店頭販売と、美術館に展開される同様のインスタレーション――現代のコマーシャリズム、商品経済を痛烈に皮肉る芸術作品群となにが違うのだろうか。なぜ一方はキチガイの所業で、なぜ一方は先生の作品なのか。過去の美術史に照らして理解できない、正統性を欠いた仕事をアートとして包摂する動きはあるが、それがアウトサイダーという接頭語をつねに必要とし、一流のアートから慎重に区別されている理由はなにか。われわれが評価できるものは、ほんとうの狂気ではなく、狂気をきどった正気だけなのか。

ナチスの将校たちが犠牲者をガス室に入れてから人間の脂肪で作った石鹸で手を洗い、人間の皮膚を張った電気スタンドのシェードの許でモーツァルトを聴くのは、彼らにとってまことに自然な日常性であったのである。
『言葉・狂気・エロス』

きみの電気スタンドは何でできている?

 

 

エロス

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やっと書きやすい項に来た。エロなら何でもいい。おめこ。ふふ、言ってやったぜ。

――と、ここまで書いておいて僕は、自分の性体験の乏しさゆえに手が止まる。2人(どう間違えることがあろう)、回数は100に満たない。それでも行為に義務感があり、しんどい。ドラッグストアへ寄るたびに「これってどんな感じかな」とあやしげな字体の小ビンを振って、まだ20代の僕にすきあらば精力剤を飲ませようとするくらい女は不満だ。ヤらなくちゃいけない状況を逃れられないから本当はホテルへ行くのも嫌なのだ。妊活中の女のために、妊娠の可能性が高い日を狙って一週間連続で注射針のように働く男の仕事を思うだけで、頬が尻のようにえぐれる。ホストの枕営業ハシゴ4軒の自慢を聞いて、わが男根のか細さを恥じる。

人間の性の本質は、それが生殖のための生物学的欲求から、文化的欲望へと変質したところに見出せる。狭義の動物と共有するかに見える性器性欲の底には、口唇・肛門リビドー、同性愛、サディズムマゾヒズム、スカトロジー(糞尿趣味)、フェティシズム(異性の下着や靴などに愛着を覚える節片淫乱症)等々の非生殖的欲望がひそんでいる。そんなものはすべて異常性欲だと思う読者は、正常とみなされている”甘い口づけ”の非生殖性、自慰行為を可能にするエロティックな想像の世界を考えてもらいたい。……本能的性行為がエロティックたりうるための条件は、想像力による性的イメージの喚起であり、これを出現せしめるものは、言葉が生み出す自/他意識、時間・空間意識、死の意識、裸体・排泄事象に対する性的羞恥心、そしてとりわけ人間という動物がもつ一切の美意識であると言えよう。
『言葉・狂気・エロス』

SM、スカトロの趣味はない。下着を盗む癖もない。僕は性的イメージの想像に乏しく、それを生み出す性の語彙に貧しい。説明書どおりの前戯に始まり、図面どおりの正常位に終わる。僕のセックスは人間的なエロさに達していない。だから経験がないのに時間がかかる。女の股の間で「おれは今とびきりエロいことをしているんだ」と自分に何度も言い聞かせて、状況を再定義しないと終われない。おれは女が好きなのだろうか、と男の脳裡につねにひそむ一種の疑問とも格闘せねばならない。浜田ブリトニーは身体のあちこちにタッパーで持参したナメクジを這わせてくるおじさんとパコった話をするが、セックスにナメクジを持ち込むような洗練された大人になるにはどうすればいいのだろうか。

 

最後は性の悩み相談になってしまった。僕は服を脱いでも着ても、保守的で閉鎖的な人間である、ということの再確認であった。だから自分にない三要素、言葉・狂気・エロスに惹かれるのだと思う。僕に書ける本はただ一冊、『無言・弱気・遅漏』――。