おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

「女と食と一人前」論

 

阿川弘之(1920-2015)『食味風々録』
開高健(1930-1989)『最後の晩餐』
町田康(1962-)『餓鬼道巡行』
作家三世代の食にまつわるエッセイを読んでいる。

文壇では、
「女と食が書けること」
が一人前と認められる条件だそうだ。

僕はゼロ人前である。

 

***

 

女。

興味があるに決まってる。小学生で団地のメンバーと徒党を組み、ゴミ集積場をめぐって、成人雑誌を集めた。さすがは高密度の集合住宅地である。金持ちが沓を履きかえる玄関よりも狭いスペースに、家族6人が肌をこすり合わせて生活し、フラフラしている中年男がゴミ屋敷を作り、雑種犬をしたがえた老夫婦が死に場所を見つけ、将来を悲観した女が自室に火を放ち、犯罪者が身を隠し、廃墟に近いというので心霊映画のロケ隊が撮影にやって来たりしたので、しぜん吐き出されるゴミは多量にして多種多様、エロの趣向も多岐に渡っていた。「まったく年増のマ●コはちょうどいい温かさだぜ」という漫画のセリフを、意味も分からず、大人の世界のシャレた符丁として、毎日のように囁きあっていた。中学に上がり、来客用の多目的トイレで、ある目的を達成し、童貞を破ったのは、メンバーのうち一人だけだった。みんな知識はあっても、行動にうつす度胸がなかったのである。器具の役割、各部名称、操作の仕方は覚えても、怖くて使えなかったのである。このメンタリティはいまも受け継がれている。刺青をした女に、ろうそくや電極を使って責められている男を見ると(そういう画像が”女王様”のツイッターにあがる)、趣味の研究と実践を羨ましく思うのである。僕は所詮、正常位どまりのつまらない男なのだ。経験の多寡が、作家の良悪を決めるという仮説は、生涯純潔を守った宮沢賢治の一例をもってして破れるも、野山のスケッチで女は描けない。女はキツネと一緒に野を駆けないからである。

 

食。

わざわざ美味しいものを食べに出掛けるくらいなら、家でインスタント麺でもつつくほうがマシである。部屋をもらった高校生の時から、朝昼晩ずっと自室でひとりで食べてきた。たまの外食で他人の視線にさらされながら、他人のペースに合わせて食事すると、石を飲んだように胃が重くなり、半人前も食べられない。上司と飲んだサラリーマンが、帰りに自分の酒をひとりで飲み直すように、僕も人と別れてから、家でもう一度食べ直すことがある。

グルメらしいことをするのは加湿機だけだ。給水タンクへ、焼き鳥屋の秘伝のタレみたいに、水をつぎたしつぎたしで補給している。細菌がわいて老人ホームで死人が出たと聞いてから息をするのも恐ろしい。しかし秘伝のタレも底を浚えばハエやゴキブリの一匹二匹出るのは同じであろう。

食が一人前の条件として挙がるのは、見た目の写生もさることながら、味の表現に比喩を多用するからである。たまごを食べて「それはたまごの味がした」とは書けない。たまごの味がする、という述語が使えるのは、おならが主語のときだけだ。「目ざましい比喩をあげ、すぐれた比喩を見せてくれる人は、明らかに深い理解力の持ち主である」とショーペンハウエルが言う。それは文豪の創作、芸人のツッコミ、彦麻呂の食レポをみれば即座に解ることである。

しかしみる者がよだれを垂らすような食べものの表現は、褒められた技術だろうか? 「アーサー・シモンズは、『文学でもっとも容易な技術は、読者に涙を流させることと、猥褻感を起こさせることである』と言っている」。と三島由紀夫が言っている。ならだ液を流させること、空腹感を起こさせること、食欲を亢進させることも同列の技術ではないか。

セックスの対象として女を書くのは簡単である。そんなものは素人が風俗店のレビューでいくらでもやっている。難しいのは客体ではなく、主体として女を書くこと、つまり女になって、女の目を借りてものを書くことである。それでいえば、食も、食べられるものの立場になって書くことが、一人前の条件なのではないか。

 

***

 

茶碗のごはんは蒸気にけぶっていた。

米は――そう米! この世に一粒一粒がオリジナルの位置と存在を有する、かけがえのない生物の個体が、米の名のもとに集合的に一括処理される。この第二の脱穀精米ともいうべき過程に、こめたろうはほとほと嫌気がさしていた。しかし、
「一粒では何も出来ないのも実情だ」
落ちこぼれたごはん粒、皿に残った最後の数粒は、孤立して集団性を失うとともに「米」の看板を失い、食べものからゴミへ、器から三角コーナーか排水口のネットへ向かい、他の残飯とともに水道水に打たれながら、雑菌の繁殖をただ待つだけとなる。それならいっそ食われたい。食われて人間に生き――人間とは口から肛門をつなぐ一本のチューブの名だと言うではないか――消化され、分解され、吸収され、人間の外壁を構成する分子の一部となって、生き続けたい。死者の灰を畑の肥料にするが如くにである。しかし私は、私という意識はどこへ行くのか。物質は流転し、自我は蒸発する。

幽体離脱ということばもある。魂が肉体を俯瞰するのであって、その逆ではない。上昇の浮遊感はちょうど今のような……こめたろうは箸の持ち上げる米の一塊となり、口へ運ばれた。

口だ! かつての神話的戯画に、歯のついた女陰が歯茎をむき出しにして、こちらを美味しそうに覗くものがあるが、あれは両唇のあいだの穴という意味で、口と性器のイメージが合体したものだと考えられている。しかし事実なのだ。口とは歯のある性器であり、性器とは歯のない口なのである。多くの人間は食べられたことがない(生きたままならなおさらだ)なので、口の怖さを知らない。相手を切り裂き、噛みちぎり、すり潰し、自分の一部として飲み込もうとするときの、あの迫る口のおぞましさを知らない。底なし沼と口と、それから女の穴。絶望はすべて丸い形をしていると教えるために、すべて人間の文学は費やされている。

こめたろうは舌のうえで、次第にすぼまる外の景色を目におさめた。テレビ。テレビだった。こめたろうが最後に見たものは、テレビに映る、グルメ番組のなかの高級にぎり寿司盛り合わせであった。こいつはごはんを見ながら、ごはんを食べているのだ。ごはんを見ながらごはんを食べ、ごはんのために働き、働いた金でごはんを買い、またごはんを食べて働く力を身につける。生きることはごはんの絶えまない流入と排出にあり、もろもろの苦悩、悲観、実存的な問いはすべてまわりにくっついた副次的な生の意味にすぎないわけである。

ついに光は失われた。

奥歯に挟まった食べカスが悪臭を放つ。消化される前から、すでに口内にはうっすらと大便のにおいが漂っている。こめたろうは、満員の長距離バスの車内で餃子弁当を開けられた時みたいに嘔吐を催したが、そんなことはこれから起ることにくらべたら全然マシなのであった。揺れる。舌の絶え間ない前後運動にもてあそばれて、遊園地のフライングカーペットでもこんな思いしなかったぞ、と恐怖しながらどうしようもなく転げまわった。歯と歯の当たる軽快な音のあいだから、すでに噛み切られ、バラバラにされ、すり潰されて、自身の体液にまみれた米粒たちが、ぐちゃぐちゃと粘着性の湿った音を立てていた。こめたろうは天井から降るだ液に濡れながら、屠畜場の待ち列で消毒液を浴びる牛の気持ちになっていた。肉体が切断され、粉砕され、液状化する気分はどんなものだろう? 自分をつなぎとめる輪郭線が失われて、周囲の環境へ、自分を取り巻く世界へどろどろと流れだし、一体化する心地はどんなものだろう。それはエクスタシス、つまり忘我の瞬間であり、我と彼の消滅、生と死(往く、逝く、イク。どこへ?)の一体感がもたらす、至上の――

白い濁流は食道へ流れ込んでいった。

 

【JCVD化計画】第1章 見えない成果

 

(前回までのあらすじ)
ベルギーの秘密捜査官JCVD(ジャン・クロード・ヴァンダム)は、麻薬組織の一派に息子のサム(ハーレイ・ジョエル・オスメント)を誘拐されてしまう。サムは今年30歳を迎える無職で、ネットゲームに入りびたりの生活を送っていた。JCはやっかいものの息子を追い出せて気が清々したものの、いまだ子離れできない妻のブリジッド(ドリュー・バリモア)に尻を叩かれ、しぶしぶサムの救出に向かうことに。一方その頃、極東のある島では、JCVDに憧れる一人の青年(かたむきみちお)が、JCを助けようと身体を鍛え始めた。果たして間に合うのか!

 

 

 

f:id:gmor:20180210222409j:image

変わってねえ!

いや、よく見ると
右上に6パックの1パック目がうっすら出来てきてる。
腹筋ってこうやって割れるもんなの? 知らないけど


あのさ、高学年向けの間違いさがしをやってるわけじゃないんだから、もうちょっと筋肉ついてくれなきゃ困るよ。筋肉はウソつかない? だったら俺のトレーニング方法に問題があるっていうわけ?

なんだよチクショウ。ヴィン・ディーゼルが「どうすればムキムキになれますか?」って訊かれて「失業することさ。暇になりゃ鍛えるしかねえ」って答えてたよ。俺もバイトやめよっかな。 でもバイトやめたらプロテイン買えなくなるよね? バイトやめる→プロテイン買えない→筋肉増えない→JCVDを助けに行けない の負の連鎖で、一生この駄作映画のエンドロールが上がらなくなるよ?

 

まあいい。来月だ来月。