おならっぷばーん

You can't fart without changing the balance in the universe.

連続CSI未読事件

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松岡はデスクの上へ反吐を戻しそうになった。寸でのところで苦い水を飲み込んだ彼は、画像のプリントを持ってきた清水にいきさつを尋ねた。
「誰がやったんだ」
「傾木道男。大阪住みの28歳フリーター。自称読書家です」
「犯行日時は?」
「ツイートは10月15日午後8時です。本を買ってきたという発言が午後9時ですから、わずか1時間で読み終えたと言うことになります」
「あやしいな」
松岡は胸もとから両切りピースを取り出そうとしたが、そもそも彼は煙草を吸わなかった。親指と人差し指でシャツ越しに自分の乳首をごそごそ愛撫する。うっとりと虚空を見つめる松岡を横目に、
「所長、こいつは未読でしょうか?」
「清水君、間違いなく黒だ。『ミステリー小説を読むのは初めてだけど楽しめた。映像より本のほうがおもしろい。やっぱり俺って活字脳だわ』。このうすっぺらな感想を見てみろ。肝腎の本の内容には触れちゃいない。こんなマヨネーズの最後っ屁みたいな感想を書きつける奴は、読書歴を自慢して知的に見られたいだけなのだ。読んだと言っても、何をどう読んだとは言わない。内容に突っ込まれたら、浅い理解がバレてしまうからだ。この手合いの人生とは『見た、聞いた、読んだ、した』の羅列がすべてであって、それ以上でも以下でもない」
傾木のアイコンは自撮りだった。窓を見る後ろすがたを撮影したもので、光が型どるゴツゴツした背中の輪郭線には、イヌの無骨さというよりキツネの狡猾さがあらわれていた。
「読書する人間には2種類ある。本を知りたい人間と、読んだことを周囲に知ってもらいたい人間。傾木は後者だ。死体を山に隠す者もいれば、何もしないのに俺がやったと騒ぐ奴もいる。異常者はどっちだ」
「嘘つきは死んだほうが世のためになります」
「それは言い過ぎだが、ちょっと注意してやってもいいだろう。早速住所を割り出してくれ。次の休みに乗り込むぞ」
松岡はポケットから指を抜き出して真顔に戻った。

 

松岡本舗は探偵社である。ふつう探偵社は浮気調査を主な業務とするが、松岡本舗は本に関わる依頼のみを受け付けている。その理由は、
「金じゃないんだよ。知識は本のかたちで流通する。その流れが滞っては人類の文化は衰退するのみだ。血栓は血のめぐりを悪くする上に、死を招くこともある。市井の人々が抱える本の問題を解決して少しでも社会の知的流動性を高めること。それがわれわれの使命だ」
胸を張って創業の意図を聞かせるが、清水は所長の外貌――肥満体の50代、不潔に掻き乱れた薄毛の頭髪、しいたけの裏すじみたいに鼻毛のつまった鼻、機械部品の小さいネジのような奥目、使い古しのほうきみたいにスカスカになった歯――その口では女の劣等性を主張するものの、いざ本物の女を眼の前にすると、それがファミレスの注文取りでも緊張でうろたえる心理とから判断して、所長が浮気の案件を避けるのは、彼が童貞で、男女の細かい事情に通じないからだと見抜いていた。

事務所は大阪市内のアパート。探偵社の収入では家と仕事場の2件の賃料を払えないので、松岡の住宅も兼ねる。と言うより、炊事場の一角を事務所と呼んでいるに過ぎない。本業は金にならないので副業の施設警備員で生活費を稼いでいるが、どちらかと言うと、警備員のかたわら趣味として探偵業を行っているというのが本当である。職場でも「ちょっと本業が忙しくてね」とわけあり顔で事業の充実ぶりを匂わせるが、どの社員よりも出勤日の多いシフトを組んでいるため、あいつの本職は何だと陰口を叩かれている。清水ははじめて松岡に会った日のことを思い出した。 

「うちで働きたいのか」
松岡は居間に座って新聞を読んでいた。ゆるんだ半パンの口から、藻のひっついた浮きみたいな金玉がぽろっと見えている。十年前に友人のハワイ旅行の土産で貰ったらしいTシャツの海亀は、プリントがはげて、本物の甲羅みたいにガビガビになっていた。
「本と関わる仕事がしたいんです」
「先にいっとくが給料はほとんど出ない。いや、まったく出ないと言っても言い過ぎではない。なんせ依頼は月1回あるかどうかだから」
後で分かるが、この月1回は嘘で、ほんとうは半年前に1回、老人の植木の世話の仕事をしただけだった。老人は、「あなたの本の悩み解決します」と書いたおもて看板の「本」の字を「木」と見間違えてやってきたのだ。
「本の探偵に興味があるから、やってみたいんです」
「では面接といこう」
松岡は膝を打って立ち上がる。しかし2人で腰かける家具もスペースもないのでその場に座り直した。清水は男ひとり暮らしの殺風景な4畳半の居間に、家主とさしで向かい合う。
「志望動機は」
「はい。近年、若者の読書離れが進んでいます。文化庁の調査によれば、日本人の半数は月に1冊も本を読まないそうです」
清水は暗記文の再生機となるあいだ、部屋をぐるり見回した。室外機と一体化した古いタイプのクーラーが窓枠にはめ込んである。スイッチを入れたら、目につまったほこりがミンチ肉のように吐き出されそうだ。ホットプレート、炊飯ジャー、扇風機がダンボールの積み木になっている。粗大ゴミ用シールが貼ってあるのを見ると、どこからか拾ってきた物らしい。
「私は社会学部でメディアと社会との関係について学んでいます。そこで得た知見をもとに、御社で本にかかわる実務経験を積ませていただき、本と人とが互いに歩み寄れる社会づくりを目指したいと考えております」
うわの空で聞いていた松岡はぼそり、
「君は学生だったのか。老け顔だね。いや学生さん大歓迎だ。ひまな時間をどんどん調査に充ててくれたまえ」
ない履歴書を手もとで繰るような動作をしてから、
「趣味は何だ。やはり読書か」
「はい。高校生の頃に授業で読んだ夏目漱石の小説に衝撃をうけて、以来日本文学や世界で名著とされる……」
清水は嘘を言いながら不思議に思った。この家には本棚がない。もろもろの請求書や手紙に混じって『淫情ホテル』『まさぐりマッサージ』『初めてはおじさまがいい』等の官能小説が、カバーもめくれあがった状態で放置されているだけだ。採用が決まって新人研修のために呼び出されると、尾行の練習で誰かれ構わず後をつけて帰り道がわからなくなったり、治安を守る監視業務と称して駅前の書店で立ち読みしたり、読書勘を鍛える訓練として遠方の古書店までエロ小説を書いに走らされたりした。清水は自分のやっていることが仕事なのか、おっさんの休日相手なのか分からなくなり、自分で事件を探すことにする。読書にかかわる怪しい発言やブログ記事を検索であぶり出す。報告を受けた松岡が捜査の方針を立てる。ある女子高生は、ティーンのあいだではやっていた恋愛小説を読んで「涙がとまらなかった。私も素敵な恋がしてみたい」とブログに書いた。そこへ、
「あんな本とも呼べない代物を読んで泣いたと言うのは、君の感情の未熟さ、頭脳の低劣さを示しているようなものである。10代の頃から、安っぽい感動を売りにしたエクスプロイテイショナルな小説、粗悪でなんの人間的深みも感じさせない文章に触れて、またそれを喜々として受け入れている感性をみると、君が大人になって到達できる人間としての射程もだいたい予想がつくというものだ。物の真贋を見分けるセンスを君に養いそこねたという意味で、両親のあわれな教育水準、なさけない生活の文化的水準まで手に取るようにわかってくる。さて君は小説のような恋がしたいと言ったが、アイコンにみる君の溶岩似の容姿から判断するに、世間並みの異性経験を得るのはゴリラが動物園の運営側に回るより無理な話である。その場でむなしく空転を続ける地球型の遊具のように、自己愛と自己否定の絶えざる交代のうちに失意の10代を、失望の20代を、失禁の30代を送るであろう。だいたい君は書く人間ではない。ランウェイを歩くにも適した身体があるように、文章を書くにも適した知性と感受性があるものだ。残念ながら君の字の連なりは冬の日の大便の湯気にも劣る」
と匿名でコメントを投稿して、女の子のブログを閉鎖に追い込んだことが最近唯一の手がらであった。読書の規律を正す私設警備隊、松岡本舗が次のターゲットに選んだのが、自称読書家の男、傾木道男であった。

 

松岡と清水は公団住宅の前に立った。市内から電車で20分の郊外、大阪への通勤者を抱えたベッドタウンだが、街の隘路にしょんべんの臭いは立ち込めていない。野良犬の死骸も、路上生活者のブルーテントも見えない。おもて向き清潔な街だが、そこには都市の冷淡と、村落の陰湿が重なっている。生活に足るすべてのものがあるが、生活以外のすべてのものがなかった。年頃の男女を学校と会社に吸い取られた街は、3から2を引いた余りの主婦、老人しか残らない。松岡は怪しまれないように警官風の改造制服を着て、腰に本物の警棒を挿していた。
「奴はどんな顔をするだろうな」
松岡はくちびるを舐める。初めての本格的な捜査である。インターホンを押す指がふるえた。
「はい」
「警察の者ですが」
ハッと息を飲んで飛び出して来たのは、アディダスのジャージに、カルバン・クラインのドブ色のTシャツの若い男だった。若いと言っても稚拙の意味だ。28歳の社会人が当然備えていているべき威容というものが、この男にはことごとく欠けていたのである。
「なんですか一体」
「わたくしこういうもので」
松岡は警察手帳を開くが、それは黒く塗った母子手帳であった。
「この清水君という学生がね、あなたのツイートに犯罪性があると言って通報してくれたんですよ。今日は捜査のためにやって来ました。上がらせてもらいますよ」
松岡はくたくたのスニーカーを扉に挟み込んだ。
「いきなり来られても困ります」
「犯罪の証拠が部屋にあるからですか? うしろめたいことがないなら、堂々と部屋を見せられるはずですよ」
「令状はあるんでしょうね。正当な捜査だと証明してくださいよ」
松岡はしまったという顔をした。清水はアヒル口になる。
「私がちいたんです。あなたがここ数日ダイレクトメッセージでやりとりしていた家出少女のちいたん17歳ですよ。『何もしないから安心して。いつでも泊まりに来ていいよ』と優しく住所を教えてくれましたよね。あなたが私に寄こした赤ちゃん言葉の誘い文句、目も覆いたくなるような卑猥な発言をプリントして階下の掲示板や、近所の電柱、職場のロッカーに張り出しましょうか。あなたの人となりを知ってもらうチャンスですよ」
傾木は黙ってドアを押し開け、ちいたんと警官を自室へ導いた。

傾木の部屋は綺麗だった。28歳、実家住まい、やる気ないフリーターとくれば、その部屋は、趣味の徹底によるやりすぎたグッズの収集、管理の不徹底によるいきすぎたゴミの散乱、と決まっている。ところが、この部屋には物がなかった。傾木はブログで散々ミニマリストをこけにしていた。――「物がないのを喜ぶのは貧乏人の強がりだ。欲しい物が買えない不満をあえて所有しない質素の美徳によみ替えているだけなのだ。男が寄りつかぬブスにかぎって『わたしは男断ちをしている』と言い張るのである。ニーチェは、キリスト教道徳の起源を負け組の怨みにあると見抜いた。持たざる者が持ち得ぬ力を否定し、その弱さを正当化する。無力を善良と言い替え、臆病を謙虚にすり替える。貧乏くさい倹約をおしゃれでシンプルな生活の実践と捉えるこの価値の転倒こそ、ミニマリズムという宗教が大衆に与える救いなのだ」
と書いてはてなスター2つの微弱な反応を得ていた。しかし自分ではジュースについてくるおまけやどこからともなく集まるシール、キーホルダー、マスコットフィギュア、その他雑多な小物を、神経質な指使いで部屋の外へ追い出していた。人を家に呼ばないくせに、ふだんからこれだけ部屋の景観にこだわっているところが不気味である。部屋が、その人の精神を裏返しにしたものなら、この男の中身は空っぽか、あるいは裏返しにしてもなお暗い部分に重大な秘密を隠しているに違いなかった。
「被害者はどこだ?」
松岡は写真を指して訊いた。
「ああ。CSIならこの辺に」
傾木は本棚を調べた。この部屋には本がある。乗用車1台分のスペースに、腰までの高さの本棚が3台、可動式のメタルラック3台、クローゼットを半分つぶして、それも本棚にしてあった。目算で1000冊はある。科学や哲学のついたぶ厚い本、高名な作家の文学全集などは、入ってすぐのところにこれ見よがしに置いてある。九鬼周造『人間と実存』、キルケゴール死に至る病』、西田幾多郎『哲学論集』などの合間合間に、『生きかたがうまくなる本』『99%の人がしている悪い習慣を捨て、たった1%の成功者になれる本』『幸運は「行動する人」だけが手に入れる』等の安易なタイトルが顔を出している。これがこの男の本質なのだ。外面では古典や名著に親しむふりをして、読書の通を気取ってはいるものの、実際は負け犬を脱出する人生のマジックを自己啓発書や成功哲学書に探して、いつかの大金持ちを夢見るあわれな読書人なのである。宝くじ売り場の窓口で、自らすすんで自身の統計学的無知に課税を受ける人々と同じなのである。成功者が書いたビジネス書をありがたがって読むことじたいが、忌み嫌っているはずの勝者敗者の搾取構造をより強化してしまうことに気づかない。君もこっち側の人間になれるよ、という甘言のうらには、鳩がみみずに向かって君も翔べるようになると語るときの悪意が潜んでいる。みみずは土を進めばいいのである。
「君は難しい本をたくさん読むようだ」
松岡の皮肉に傾木は喜んだ。
「こう見えても大学院まで行ったんです」
出た、と言わないのがミソだ。高卒の両親が共働きで貯めた金を使って進学したものの、学問を究める気力も、それを可能にする知力もなかったので早々退学したのである。有能を証明するべく次から次へと資格を取りつづける資格マニア同様、彼もまた知的コンプレックスを拭うべく、教養の香りをふんぷんと漂わせる書物をひたすら集めて書棚にならべ、自分の才能の代わりとしているのであった。
「ありました。『CSI: 鮮血の絆』です」
傾木はカバーのない赤い文庫本を手にしていた。
「ちゃんと読んだか?」
「読みましたよ。奥にふせんも付いてある」
「あらすじを話してみろ」
傾木はむっとして答えた。
「CAStっていう連続猟奇殺人犯を追うんですよ。たしかCAStはCapture、Afflict、Strangleの略、つまり捕縛して凌辱して絞殺する彼の犯行スタイルからとられた名前です」
清水が身を乗り出した。
「どこが猟奇的なんです?」
「小太りの中年男性のみを狙って、拷問して指を切りとって、ロープで締め殺してから、死体にまたがってあれして背中に精子を撒くからですよ」
傾木は筒にした手で空気をしごいた。松岡は恐怖して脂肪でふくらんだ胸を押さえ、一方の手で股間を覆い隠した。
「結末はどうなりました?」
「いや、それは小説の性質上お教えできません。あなた方の楽しみを取っておいてあげます」
「実は私も読んだんです」
傾木は口を開けたが、声が出なかった。
「あなたのレビューを見ると、およそ1冊の小説を読んだとは思えないくらい感動がうすい。あなたは、読んでないのに読んだと書く虚偽記載、つまり読書量を過大計上して、人物の教養をより高くみせようとした粉飾読書の疑いがある。今日この部屋に踏み込んで分かりましたよ。あなたはここにある本をほとんど読んでいない。それが証拠に、あなたがしおり代わりに挟んでいるポストイットが、すべて本の半ばで止まっていますよね。あなたは未読の常習犯だ」
「言いがかりはやめてください。僕は小学校の頃に読書チャンピオンにも選ばれているんだ」
「それはご自身が過去に告白されているように、同じ絵本を30回めくってページ数を水増ししたんですよね。あなたは小さい頃から読書量を偽る傾向があったということですよ」
顔色をとり戻した松岡が加勢する。
「根っからの犯罪者なのだ、君は。本の扱いもひどい。買ってきたそばから本のカバーを破り捨て、あげく中身は読まないときた。金をちらつかせて女を家につれ込んだのに、前戯の途中で指を動かすのをやめてしまう。それで100人斬りを達成したと騒いでいるんだ」
松岡は自分が童貞だと見くびられぬように女の喩えを用いたが、釈然としない両者は比喩の整合性を確かめて黙ってしまった。
「つまり」
傾木が口を開く。
「ナンパ術とかモテ講座を教える自称恋愛のプロが、実は酒にものをいわせて女を乱暴していただけ、みたいなことですか?」
「その話はいい。観念してこちらの言うことを聞くんだな」
松岡は傾木の腕を掴みにかかった。しかし傾木は手を払って、
「もうすぐママが帰ってくるんだ」
と騒ぎ出し、彼らを家の外に追い出してしまった。

 

その夜、傾木はブログを更新した。

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「大変な一日だった。母子手帳を警察手帳にした変なおっさんと、うす気味悪い男が家にやってきて本を読んだの読まないだの、いろいろと難癖をつけてきやがった。でも僕の大学院仕込みのロジカルシンキングで論破してやった。おっさんは中央署から来た警察官を名乗ったが、服装は警備員のそれで、胸には旭日章の代わりに黄色く塗った落ち葉が貼ってあった。いるんだよな、どの地域にも警官気取りの頭のおかしい連中が。すげなく対応すると後が怖いから、気ちがいの捜査コントにちょっとだけ付き合ってやったよ。まったく馬鹿の相手は苦労するぜ。そういや今日はCSI『死の天使』を読んだ。感想はまあ、面白かったよ」
松岡は机上にこぶしを叩きつけた。
「あのアホがヘマをしでかさないように、わざわざ注意しに行ってやったのに、あろうことかその日のうちにまた本を読んだと嘘をつきやがる。もう我慢ならない。ぶちのめしてやる」
翌朝、傾木の変死体が発見された。


取調室で松岡はしょんぼりしていた。
「事件当日に傾木と接触したな? 被害者のブログに、お前が警官の恰好をして家に来たと書いてあるぞ」
「いやまあそれは一種のお遊びでして、決して脅かすとか暴力を振るうために参ったわけではありません。彼のネット上の振るまいが少しばかり一般常識から外れて公衆に迷惑を与えかねないと判断いたしましたので、善き隣人として注意しに行ったまでです」
刑事は服を指さして言う。
「警察のまねをするのは常識か?」
「人は服でもって区別されます。運動会の紅白帽の延長ですよ。会社員には会社員の、土工には土工の、陶芸家には陶芸家の、医者には医者の、それぞれ着用して然るべき衣服というものがある。それを逆手にとれば、人間は誰にだって成れるわけです。あなたも刑事の恰好をしているが、本物かどうか分からない」
刑事は黒く塗った二枚貝を開いてみせた。
「被害者はロープで絞め殺された。死体の指は切りとられ、背中には犯人のものとみられる精液が飛散している。この殺し方に覚えはないか」
松岡はみるみる青ざめていった。刑事に聞こえるか聞こえぬほどの声で「そんなことがあるはずない」と何度も唱えた。

別の部屋で清水が取調べを受けていた。
「傾木は人間関係じたいが希薄な男で、怨みを持たれるほど誰かと親しく交際することはなかった。彼の死でもっとも得するのは両親だ。30歳近くにもなって自立せず家にいる彼にたいして、愛憎入り交じった感情を持っていた。一人っ子の彼を甘やかして育てた自分たちにも責任の一端はあると感じていたので、家から追い出すこともできない。息子は死体となって家を出ることになったが、両親は別のかたちの出立を望んでいたようだ。さて次に、傾木と会っていたお前らがもっとも怪しいわけだが、2人のうち本に登場するシリアルキラーの手口を知っていたのは清水、お前だけだ。調べによると、お前は大学生でも何でもないただの無職の男。はじめから傾木を殺すために松岡の探偵社に入ったんじゃないのか?」
清水は落ち着きはらって答えた。
「僕は本が好きです。本を中途半端に読んでる奴、ファッションアイテムの一部と勘違いしている奴、知識を貯め込むのが偉いと思い込んで威張っている奴、そんな連中をみると、確かに殺してやりたいと思うほど憎い。でも殺しはしません。いま生まれた赤ん坊も、じいちゃんばあちゃんも、僕もあなたも、部下も上司も社長も、どんな有名人も、あと数十年もすれば一人残らず死んでいなくなる。いま目に見えているすべての人間が、ですよ。見え透いた結果を先取りしようとは思いません」
「きのうの晩はなにをしていた?」
「物理空間と情報空間は連続しているんです。熱心なキリスト教徒が、イエス磔刑を再現するかのように、手のひらに血をにじませる。それと知らされずに飲んだ偽薬が効力をもつ。人間とは不思議なもので、頭で念じたことが現実世界に効果をもたらすんです。つまり『鮮血の絆』を読んだ読者の想念が共有実体化して、この世界に本物の殺人鬼が生まれたのかもしれない。あるいは単なる模倣犯のしわざかもしれない。僕もあなたも、傾木という偏屈な男の想像によって生み出されたのかもしれない。もちろん反対に、われわれが傾木という人間を作り出したのかもしれない。実は私が警官で、あなたが容疑者かもしれない。ものごとを多面的には捉えるには、私たちの目はあまりにも近づきすぎている」

 

ドライブとダメ男の幸福論

 

人的交渉がわずらわしくて、ネット通販かセルフレジ完備のスーパーで買い物を済ませる。来月の給料日まで989円しかないので、おやつを買うのに親のクレジットカードを通している。親の臑骨とは、16ケタの番号が浮き彫りになった名刺大の板のことを言うのである。パパが毒ヘビに咬まれ、ママンがふぐに中って倒れる不運が重なった日には、足の指でわらをよじって、首吊り用の縄を編まねばならない。職、住所、身寄りのない30代フリーターが、漫喫の個室でわかばを吸いながら明日の不安を語るドキュメントを、実家自室のPC前でぬくぬくと見ていたが、同じ未来はすぐそこに迫っている。自立しない人間のことばにどんな重みがあるだろう。できちゃった婚した不良上がりの大工のほうが言うことに説得力がある。志賀、芥川、太宰は、みな食うに困らない名家や資産家の生まれなのにちゃんと働いたところが偉い。僕はもうすぐ30歳になる。しわだらけの両親に寝食をみてもらっている男は、同じ環境に甘んじている人間の気休めとなるほかにどんな使いみちがあると言うのか。

 

ドライブに出た。家の前に500万円超の国産SUVが停まる。25年前、幼稚園の入園式でとなりにいた男が運転手だ。名前はKだが、夏にSに変わった。結婚して婿養子に入ったのである。大学卒業後、運送会社に入社してトラックを転がす。座席はクリーム色の革張りで、肘かけに腕を乗せるのにテーブルでステーキを食うような格好になるくらい広い。目線は前を走る車のどれより高かった。素直にすごいと伝えると、
「日本の道でこれを運転できる奴はなかなかおらんと思うで」
プロドライバーの誇りが感じられた。

かつては中古の軽が停まった。Sの両親が足代わりに買った車だ。僕らは免許とりたての学生で、夜中じゅう走り回った。数年後、S家は車を買い替えて、コンパクトカーがやって来るようになった。やがて社会人になり、夫になり、家を建て、今度は自分の金で買った自分の高級車に僕を乗せてくれるようになった。そのあいだに僕が築いたものは何だろうか。小学生から拡がらない交友の輪、中学生から変わらない暗いものの見方、高校生から乗り換えない原付バイク。――雨の日だった。僕は口臭消しのガムみたいな色のレインコートを着てずぶ濡れになりながらバイト先のスーパーから出るところだった。Sとすれ違った。新車のワックス残るSの車は、雨のなかを戦艦のように進んだ。フロントガラスに、僕を見つけてハッとするSと、助手席で笑う奥さんが見えた。このすれ違いがすべてを象徴した。片道一車線の田舎道に、大人と子供の分離帯があった。

車は進む。悪路走行用にサスペンションストロークが長い。路面のギャップも大型バスの浮遊感で走る。車内の話題は、新婚生活。奥さんは人材派遣会社の営業職で、朝から晩までバリバリ働いている。遅い日は23時を過ぎる。非番のSは炊事、洗濯、掃除を片づける。
「完全に夫のほうの主夫やな」
「まさしくそやで。でもそっちのがええねん」
おれの性格にあってんねん、と続ける。今風の夫婦だと思った。Sは子供を望むが、彼女はキャリア継続のために欲さない。
「そこは偶然にまかせるってこと?」
遠回しに訊いたら、
「いや、妊娠しにくい期間にがんがん中出しする」
と知りたくもない夫婦生活の暗部を語った。Sは人が口にしたがらないことをあえて口にする露悪的な趣味がある。言っても引かないだろうという信頼か軽視か、そんなところを含めて僕はSの人となりを好いている。新御堂筋を江坂で折り返した帰路、Sが切り出した。
「お前は結婚しないん?」
これを聞くために呼び出したと言わんばかりの、普通を装った、しかしりきの籠もった質問だった。できるかー、そもそも相手がおらんわ、と返すのが常のツッコミだが、今回は相手がいる。付き合って1年、同い年のIT企業OLである。LINEの画像は2ショット。露骨なものでなく、2人のサンダルが展望台のガラス板を踏むような、関係をうっすらとしかし強烈にほのめかすもの。ちゃんと付き合ってるなら公表できるはず、プロフィールで恋人の存在が知れたら何か不都合なことでも起るの、という外交的な圧力におされて設定した。
「結婚のビジョンがまったく見えへんわ」
「でもそういう話するやろ?」
する。直接はないが、○○ちゃんが結婚して、○○の結婚式に行ってきて、この街に住めば、こんな間取りの家に住んだら、みたいな結婚をちりばめた発言、共同生活を連想させる話題がたわいないやりとりに挿入される。7日先の予定さえ満足に組めない先見の盲の男に、わずかに残された女20代の価値の重さを思い出させるサブリミナルである。

結婚はしたくない。僕は一生ひとりで生きて死んでいくつもりだ。美しい恋人、佳き妻、かわいい子供、かっこいい仕事、きれいな車、立派な家、そんなものは俗っぽいみせかけの幸福にすぎないと否定したところに僕は自身の幸福の測量計を置いている。妻帯した僧侶は、生活の俗世間的真理と、信仰の出世間的真理をわけて器用に生きるだろう。家庭に埋没しきったかにみえるお父さん達も、日常生活のどこかに、物心いずれの空白地帯に、自分のささやかな聖域をつくって暮らしているだろう。僕は聖俗のあいだでさけるチーズのように生きるのはごめんである。

彼女に伝えると、
「一生ひとりで生きていくって言われると、そこに私はいないんだと思って悲しくなったよ」
とか言うのである。これが他者の卑しさにして尊さなのだ。これだと信じて疑わなかった正解が、べつの知性の介入によって数ある代替案のひとつに引き下げられる。家庭を志す女の引力圏にとらわれて、定住定職、自立共生、そんな脳裡にありもしなかった星くずの概念に揉みくちゃにされ、平凡の妙なる星のうえへ落ちてゆく。

車は、高校生の僕らが原付バイクをびいびい言わせて走った道を、余裕の馬力で滑っていく。僕の乗り物はこっちなのかもしれない。Sは昔おっとりした子どもだった。僕が遊びのすべてを牽引した。遊びの時代が終わり、ひとつの人格が人生を築くときになると、Sははるか遠い地点に進み、いまは僕が彼に引っぱられている。ドライブは終わった。Sが去り、僕が残る。僕は、親が暖めた古巣のなかへ帰る。